『文藝文化』創刊
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1938年(昭和13年)4月、成城高等学校(現・成城大学)の教授に転任。住居を東京市世田谷区祖師谷2丁目に移した。成城高等学校は清水文雄が勤務していたが、清水の学習院中等科転任により、蓮田が後任となった形であった。 転任早々、清水文雄、栗山理一、池田勉と共に、「自ら神となって文学を新しくする日本に」という日本学の樹立のために「日本文学の会」を結成。同年7月に、蓮田を編集兼名義人として同会の国文学月刊誌『文藝文化』を創刊し、7月28日から4日間、高野山において「日本文学講筵」を開催した。 誌名の由来は、斎藤清衛から『文學道』はどうだと提案されたことと、蓮田ら同人が尊敬していた垣内松三の『国語文化』という雑誌があったことから、それらをヒントにして名付けた。この年には、同じく日本浪曼派の保田與重郎が、林房雄、萩原朔太郎、浅野晃、佐藤春夫らと共に、『新日本』を創刊している。『文藝文化』は、『日本浪曼派』(1935年3月創刊)、『コギト』(1932年3月創刊)と並列して位置づけられる雑誌となり、日本浪曼派の一翼を担った。 同年10月17日、蓮田は召集を受けて、20日に熊本歩兵第13連隊に入隊。初めて戦場に赴く前に蓮田は池田勉に向かって、「日本人はまだ戦ひに行くことの美しさを知らない」と言って微笑んだという。18日、伊東静雄は熊本へ向かう蓮田を大阪駅頭に迎えて、「おほきみにささげしいのち」と、壮行の辞を鉛筆で蓮田の日記帳に記した。蓮田は応召のかたわら、「青春の詩宗――大津皇子論」を11月、翌1939年(昭和14年)2月に「新風の位置――志貴皇子に捧ぐ」を『文藝文化』に発表した。 1939年(昭和14年)3月、植木町に帰郷。4月5日、門司港より中支戦線に出征し、湖南省洞庭湖東部の晏家大山、大橋峯などの山地に従軍した。歩兵少尉軍務の余暇に各論考、日記を書き綴り、11月に『鴎外の方法』を出版。「詩と批評――古今和歌集について」を『文藝文化』に連載発表した(翌年1月まで)。翌1940年(昭和15年)9月28日、戦線の渡河作戦中に右腕前膊貫通銃創を負い、同年12月25日に郷里・植木町に帰還した。
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