『三国志演義』においてとは? わかりやすく解説

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『三国志演義』において

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 03:49 UTC 版)

孫堅」の記事における「『三国志演義』において」の解説

第二回黄巾軍残党一味である韓忠が守る宛城皇甫嵩劉備攻めている最中に、官軍側の援軍として手勢義勇兵率いて駆けつける彼の容姿は「広い額、大きな顔、虎のごとき体、熊のごとき腰」という堂々たる威丈夫ぶりで描写されている。この時の孫堅はすでに海賊退治許昌討伐において名を挙げ下邳県の丞の職にあった宛城落とした際に南門攻撃担当敵将趙弘を自ら討ち取るなどの功によって別部司馬に任ぜられる。後に区星反乱十常侍密命により長沙太守として討伐し、烏程侯に封ぜられた。 第五回、『演義』において結成される反董卓連合軍参加した諸侯一人として登場長沙太守という肩書きに、江東猛虎二つ名程普韓当黄蓋祖茂ら四将を率い陣容とともに、その姿は「白銀光り輝く鎧を身に付け赤頭巾被り、腰には古錠刀をさげ、乗騎は斑のたてがみ」と語られている。董卓への先鋒として名乗りを上げ初戦胡軫討ち取るなど活躍する。しかし、孫堅活躍嫉妬した袁術兵糧を送らなかったために苦戦し華雄敗れて追い立てられる中で祖茂を失う。 第六回、孫堅董卓政略結婚による懐柔をそでにし、焼け落ちた洛陽復興作業着手して陵墓を塞ぐ。その最中宮中古井戸身を投げた貴人遺体から印璽発見する程普によって印璽伝国璽だと判明すると、野心を胸に抱くようになり、発見した玉璽隠匿する。その現場目撃した者が袁紹告げ口したので、孫堅諸侯の前で釈明求められる孫堅はそこで「真実、私が玉璽隠匿していたなら、命を全うすることなく戦禍によって死ぬ事になるだろう」と啖呵を切り、嘘をつき通したので、諸侯はその言葉信用する。しかし、袁紹証人を場に呼ぶと、孫堅咄嗟に剣を抜き切り捨てようとする。これら一連の行為によって分の悪くなった孫堅は、洛陽からいち早く陣を引き上げる。諸侯疑心暗鬼に陥り、反董卓連合軍解散。ますます疑い深めた袁紹は、帰途にある孫堅劉表攻撃させ、玉璽を奪う事を画策する第七回、長沙帰還果たしたものの、劉表帰還妨害され孫堅は兵の大半失い劉表恨みを抱く。些細な事で袁紹不和になっていた袁術は、孫堅劉表攻撃させる事で、袁紹の力を削ぐ事を企て孫堅に対して江夏攻略命令する。この戦いにおいて孫堅は、黄祖の守る樊城落とし襄陽包囲すると、囲み解こう出撃した蔡瑁にも圧勝する。その最中包囲本陣の帥字旗がにわかに吹き起こった狂風折れるという凶事起こったこのため韓当が「これは不吉兆しなので退くべきでは」と進言する。しかし、孫堅聞く耳を持たず出陣し蒯良策謀呂公しかけた伏兵の罠にかかり、矢を射かけられ落石押し潰され死亡した。その死体劉表軍により持ち去られたが、捕虜となっていた黄祖身柄引き換えに、この時参陣していた孫策のもとに引き渡された。

※この「『三国志演義』において」の解説は、「孫堅」の解説の一部です。
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