「親中派」という試練
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 07:14 UTC 版)
1964年の佐藤栄作政権発足以後、親米・親台湾に傾斜する佐藤への批判を強め、党内で孤立を深めていった。同年、松村謙三らと共に、中日友好協会会長であった廖承志と日中双方の新聞記者交換に関するメモを取り結んだ。これによって国内の反中国的な言動を抑え込んだために、日本の新聞は中国に関して自由な報道が大きく規制されることになった。1967年、LT貿易の5年間の期限が切れると、古井は田川誠一、岡崎嘉平太とともに翌1968年訪中し、覚書協定を交わした(この協定に基づく貿易を「覚書貿易」と呼ぶ)。期限は1年間で、古井はその後1969年、1970年、1971年と訪中を重ね、協定継続に務める。この間、自民党内のタカ派を中心に「屈辱外交」「土下座外交」と罵声を浴びせられ、また中国側からも「佐藤の弁護人」「佐藤と結託」という言葉を投げつけられながら(古井も松村と同様、中国側の佐藤批判に調子を合わせるようなことはしなかった)、日中間のパイプ役を務めていた。 1970年4月24日には、自宅前に防共挺身隊と名乗る右翼の集団が集結、一部が発煙筒を投げ込んで突入を図ろうとしたが、警備に当たっていた警察官に阻止されている。 やがて、時代の潮目は大きく変わり、1972年田中角栄政権のもとで日中国交正常化交渉においては田川とともに事前交渉を行い、日中共同声明の調印に貢献したが、同年の第33回衆議院議員総選挙で落選した(定数4で7人立候補し、6位で落選。当選者は自民党が徳安実蔵・赤沢正道の2名、無所属の新人島田安夫が後自民党、日本社会党の野坂浩賢が初立候補初当選)地元への利益誘導が、鳥取においても選挙で幅を利かす時代となっていた。古井落選については「外交は票にならないのか?」と、地元の支持者や一部マスメディアを賑わせた。
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