「太平洋の防波堤」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 05:31 UTC 版)
「ペリリューの戦い」の記事における「「太平洋の防波堤」」の解説
シャーロッド「On to Westward」は主にサイパンと硫黄島の戦いを扱っているが、ペリリューの戦いに言及した以下のような記述が存在する。 During the day Marines saw most of the suicides at Marpi Point, there were loudspeakers set up on the cliff. The surrendered civilians pleaded with the others to give themselves up, assuring them that they would be well treated. But that did not stop the suicides.Among many Japanese there seemed to be apressing compulsion to die, regardless of everything. The attitude of these civilians seemed comparable to that of Jap soldiers on Peleliu who lettered a sign before they died: “We will build a barrier across the Pacific with our bodies.” <和訳>海兵隊はマルピ岬で在留邦人婦女子の投身自殺の大半を見かけた当日の一日中の間にも、その断崖の上にはラジオの拡声器がいくつも据えつけられていた。そしてすでに投降した在留邦人たちは、他の同胞に向かつてよく待遇されるむねを説得しながら、投降するように大いにすすめたのであつた。しかし、それでも日本人の自決をとどめることはできなかつた。多数の日本人の間には、あらゆることにもかかわりなく、死のうとする強烈な推進力があるように思われた。これらのサイパン島の在留邦人の態度は、総員自決するまえに次のような文字を書き残して玉砕したペリリュー島(内南洋のパラオ諸島の主島)の日本軍将兵の態度とよく似ているように見えた。 「われわれは、わが屍をもつて太平洋の防砦を築かん!」 — 1951年「サイパン」ロバートシャーロッド著中野五郎訳p306 シャーロッドの著作に記されているペリリュー日本守備隊の兵士達が死ぬ前に書き残した「We will build a barrier across the Pacific with our bodies」の原文(日本文)は不明だが、サイパンの戦いで歩兵第136連隊長として指揮を取った小川雪松大佐が1944年5月9日に日本を出発する出陣式の挨拶で似たような言葉「身をもって太平洋の防波堤たらん」を訓示している。また同じくサイパンで自決したサイパン防衛の最高指揮官である中部太平洋方面艦隊司令長官南雲忠一中将も7月3日玉砕直前最後の訓示で「太平洋の防波堤となりてサイパン島に骨を埋めんとす」と述べている。 この「太平洋の防波堤」という言い方は1944年2月マリアナ・パラオ方面の防衛を管轄する第31軍司令官に親補された小畑英良中将がサイパン赴任前に昭和天皇に謁見した時に誓った言葉「われ身をもって太平洋の防波堤となり、陛下と国民の期待に答えんことを期す」に由来する。小畑はサイパン赴任後の1944年5月28日〜30日にはペリリューの守備部隊を視察、6月のサイパン戦時はグアム島から指揮を取り8月のグアムの戦いで玉砕戦死しているがそのとき自身も8月10日に「己れ身を以て、太平洋の防波堤たらん」との決別の電報を打っている。 なお名越は、前掲書においてペリリューの戦いを記述する前に、ミャンマー・中国大陸や太平洋の島々の玉砕戦に比肩するものとして古代ギリシア時代のテルモピュライの戦いを例示している。
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