「何かがおかしい」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 18:00 UTC 版)
「ルー・ゲーリッグ」の記事における「「何かがおかしい」」の解説
1938年シーズンの半ばから、ゲーリッグの成績は段々と下降線をたどり始める。これについて本人は当時「シーズン半ばで疲れてしまった。なぜかはわからないが、何か頑張れる気がしない」と述べている。また、エレノア夫人には30歳の誕生日以来脚に力が入らなくなっていると伝えている。夫人はゲーリッグが脳腫瘍にかかったのかもしれないと心配していた。対戦相手であるデトロイト・タイガースの投手エルドン・オーカーは後年、「ルーが病気になったと聞いたので、私は彼がいつからおかしくなったのか考えた。具体的な日時を言えと言われたら、1938年7月1日頃(この年のシーズン半ば)から、明らかに彼のプレイはおかしくなっていた」と回想している。 ゲーリッグはシーズン前の1938年1月に『ローハイド』という西部劇映画で主演をしている。映画の中でゲーリッグはビリヤードの球を投げつけたりするなど、一見問題ないようにアクションをこなしていたが、椅子から立ち上がるのに手を付いたり、歩くときに少しふらついたりするなどしており、下肢筋力低下の軽い症状があらわれていた。 ゲーリッグは次第に弱々しくなっていき、ロッカールームやフィールド上でさえ突然倒れてしまうこともあった。ほとんどの記者やファンは連続試合出場による疲れだと信じていた。35歳になってはいたが、周りのチームメイトはまだまだ限界ではないと思っていた。 少なくともゲーリッグの1938年の成績は打率.295、29本塁打、114打点とリーグ平均を遥かに上回っており、ルースの引退間際の成績さえ大きくしのいでいた。ただ、親友でもあったビル・ディッキーはゲーリッグの異変に気づいており、ある日ケチャップのボトルを持ち上げられず、代わりにディッキーが取り上げてやったエピソードが残っている。1938年の暮れになると、道路のわずかな段差でも頻繁につまずくようになり、得意だったアイススケートでも頻繁に転ぶようになった。 シーズン終了後、ゲーリッグはニューヨークの専門家に話を聞きに行ったところ、胆嚢に問題があるという専門家の診断を受けた。エレノア夫人はこの見立てに疑いを隠さなかったものの、ゲーリッグはその診断を信じて治療を任せた。健康を取り戻してヤンキースの勝利に貢献する事を自身の大きな目標とし、それに全力を注ごうとしたのである。ヤンキースに対する忠誠心は強く、球団が年俸の3000ドルダウンを提示してもゲーリッグは素直にそれを受けている。 1939年のスプリングトレーニングが開幕しても、ゲーリッグの気力が回復することはなく、例年通りに激しいトレーニングを行って心を奮い立たせようとしても、状況は改善されなかった。当時、注目の若手選手だったジョー・ディマジオによれば動作全てがスローになり、打撃練習中に以前であればはるか彼方まで飛ばしていたような球ばかりだったにも関わらず、19回も続けて空振りしたという。 同年のゲーリッグの成績は自己最低の34打席4安打1打点、打率.143であった。さらには走塁面でもキャリアを通じて積極的な走者であったゲーリッグだったが、同年には筋肉のコントロールを失いつつあり走ることさえ困難となっていた。
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