「久山秀子」としての作家活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/28 09:14 UTC 版)
「久山秀子」の記事における「「久山秀子」としての作家活動」の解説
『新青年』(博文館)の探偵小説公募に「久山秀子」名義で応募した『浮れてゐる「隼」』が、同誌1925年4月号に掲載され、作家デビュー。同作で女スリ師の隼お秀をデビューさせる。なお、久山秀子名義の作品は小説ではなく、隼お秀こと本名・久山秀子の自叙伝、という設定になっており、そのほとんどが隼お秀の一人称で書かれている。以後、『新青年』を中心に作家活動を続ける。実際は男性であったものの、日本初の「女性名を名乗った探偵作家」である。 久山はメディア上では徹底して男性であることを隠し、女性作家「久山秀子」を演じ続けていた。久山秀子名義で発表された文章は、小説のみならず、エッセイやアンケート回答に至るまで、そのほとんどが隼お秀の語り口で書かれていた。なお、お秀の妹「久山千代子」の名義や、お秀の身元引受人である私立探偵「富田達観」の名義で書かれた作品も存在する。 1928年(昭和3年)発行の『現代大衆文学全集 35 新進作家集』(平凡社)に収録された久山の「著者自伝」には、「明治三十八年五月一日、東京下谷に生る。未婚。」という、「久山秀子」としての架空の経歴が記されていた。また、1929年(昭和4年)発行の『日本探偵小説全集 16 浜尾四郎・久山秀子集』(改造社)では、著者近影として和装の若い女性の写真が掲載されている。 一方で、江戸川乱歩・星野龍緒(筆名・春日野緑。当時、大阪毎日新聞社会部副部長)らが1925年4月に結成した探偵作家らの親睦団体「探偵趣味の会」に参加し、同会機関誌の『探偵趣味』(1925年9月 - 1928年9月)にも作品を発表している。また、大森ギャング事件(1932年10月6日)に際しては、その2日後に『報知新聞』が開催した探偵作家座談会に、海野十三・江戸川乱歩・大下宇陀児・甲賀三郎・水谷準・横溝正史らとともに参加している。したがって、探偵作家仲間の間では、その正体は知られていたようである。 『新青年』1938年(昭和13年)3月号に発表した200字ほどの短いエッセイ『簡易貯金術』が、隼お秀の語り口で書かれた最後の作品となった。同誌8月号に「片山秀」名義で『創作実話 或る成功者の告白』を執筆したのを最後に、作家活動を中断する。 終戦をはさみ、1955年(昭和30年)、『探偵倶楽部』(共栄社)2月号に『ゆきうさぎ〈梅由兵衛捕物噺〉』を発表し、17年ぶりに久山秀子名義での作家活動に復帰する。『ゆきうさぎ』掲載にあたっては探偵小説家の大下宇陀児が推薦文を寄せ、その中で、「久山秀子」が「東大国文学出のまん丸い顔をした男性で」「海軍兵学校〔ママ〕の教官だった」ことを明かした。しかし、1958年(昭和33年)までに『梅由兵衛捕物噺』7編を断続的に発表したのち、再び筆を折っている。
※この「「久山秀子」としての作家活動」の解説は、「久山秀子」の解説の一部です。
「「久山秀子」としての作家活動」を含む「久山秀子」の記事については、「久山秀子」の概要を参照ください。
- 「久山秀子」としての作家活動のページへのリンク