超高層のあけぼの 超高層のあけぼのの概要

超高層のあけぼの

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/31 14:45 UTC 版)

超高層のあけぼの
映画の主題である霞が関ビルディング
監督 関川秀雄
脚本 岩佐氏寿
工藤栄一
原作 菊島隆三
出演者 池部良
木村功
丹波哲郎
平幹二朗
佐久間良子
新珠三千代
田村正和
佐野周二
音楽 伊福部昭
撮影 仲沢半次郎
編集 長沢嘉樹
製作会社 日本技術映画社(現・Kプロビジョン)
配給 東映
公開 1969年5月14日
上映時間 160分
製作国 日本
言語  日本語
配給収入 3億6000万円[1]
テンプレートを表示

1969年度邦画興行ランキング2位、文部省特選、科学技術庁推薦、優秀映画鑑賞会推薦[4]

同名タイトルの27分の短編映画1965年に製作され[5]日比谷スカラ座で、本作の前年、1968年2月に単館ロードショーもされているが[注 1]、本項では1969年度公開の長編映画について述べる。

ストーリー

物語は関東大震災直後に始まる。東京帝国大学の学生・古川(モデルは後に鹿島建設副社長となった武藤清)は多くの建物が崩壊する中残された上野・寛永寺五重塔が倒壊を免れた事に感銘を受け、以降「耐震建築」を学ぶ。

それから約40年。古川は東京大学工学部教授となり、耐震建設における世界的権威となった。そんな彼に鹿島建設の会長が面会を求める。高度成長時にあって年々人口が増大する東京の都市問題を解決するには「超高層ビル」しかないという会長は古川に耐震性に優れたビルの設計を依頼、古川もこれを承諾し鹿島スタッフと共同で設計することとなる。

H字鋼」など様々な新技術を取り入れ、霞が関ビルは1968年の完成に向けて徐々にその全貌を明らかにしていく。そこには、現場に携わった多くの人々の苦労が込められていた。

スタッフ

  • 制作:日本技術映画社(現・カジマビジョン)
  • 配給:東映

キャスト

※映画本編クレジット順

製作

企画

映画製作の発案は鹿島守之助鹿島建設会長[7][8]1968年三船プロ石原プロ製作による『黒部の太陽』に関西電力間組とともに製作に協力した鹿島が、同作の大当たりを見て、「映画は斜陽といわれるが一度当たれば数百万人もの動員力を持つ映画、どうせやるならわが社一社で」と製作を決めた[7][9][10]。日本技術映画社はこれまでも産業映画を作っていたが[11]、今度は構想が大きいため、劇場建設で取引が多い東映の機構を借りて万全に期すことになった[9][11]。1968年5月上旬[12]、鹿島建設の九州支社長を通じて東映・大川博に協力の要請があり[7]、製作が決定した。『黒部の太陽』の成功で各映画会社とも会員組織を持つ化粧品会社などに色目を使うなど、製作費が安くすむ"企業タイアップ映画"を狙っていた[13]

製作会見

1968年7月4日[12][14]霞が関ビル35階、東海大学校友会館レストランで[10][14]、鹿島会長、大川東映社長、監修の内田吐夢、演出の工藤栄一監督らが出席し製作会見が行われた[7][14]。当時の映画の製作会見は大作や人気スター出演作でも報道陣は50人集まれば最高の部類だったが[10]、この製作会見は100人を越す報道陣が集まり珍事といわれた[10]。報道陣にはおみやげとして時計が贈られるデラックス製作会見であった[10]。製作費2億円[2][9]、1億5000万円[7][12][15][16]は鹿島建設が全額出資。制作は鹿島建設の傍系[17]「日本技術映画社」であるが、東映が出演者、スタッフ、撮影所、配給などを全面協力した[3][9]関東大震災から霞が関ビル完成までを描く年代記風ドラマを構想した[9]。鹿島会長は会見で「日本技術映画社はこれまでに約60本の記録映画を作っている。しかし見せる範囲が非常に限られていたので、今回東映と提携して劇映画の製作・配給を行うことにした」と話した[12]。決まっているスタッフは、監修に内田吐夢、監督に工藤栄一、脚本に菊島隆三の三人で、出演者は白紙だが、これから映画、テレビ、演劇などの各界から適役を起用する等の説明があった[12]。「日本技術映画社」の栗山富郎プロデューサーから「第二作も製作を予定している」と公表もあり、映画五社にとってとんだ強敵の参入と見られた[9]

この製作会見では1968年10月クランクイン、1969年1月完成、1969年3月公開予定と発表された[7]。しかし同時期に『トラ・トラ・トラ!』の脚本にも参加していた菊島の脚本遅れが原因でどんどんスケジュールがズレ[7][11][18]、1968年12月クランクイン[15]、劇部分の撮影は1969年2月上旬開始[15]、1969年4月上旬完成、1969年6月全国公開予定と修正され後も更に遅れ[15]、1969年12月に「近く台本が完成し、年末にかけてロケハンを実施し、配役を一挙に解決すべく満を持す」と発表された[11]。実際の完成は1969年4月下旬だった[3]。本作製作時には大映レンタルされていた松方弘樹は出演しなかったが、1968年6月に霞が関ビルをイメージした「東京摩天楼」を日本コロムビアからリリースした[19]。当時の日本映画は、女性一人では恥ずかしくて映画館に入れないものばかりなどと言われていたため[20]、ヘンなハダカ映画に比べれば、前向きで良心的な映画と評された[20]。 

タイトル

タイトルは1968年6月に『建築明治百年』としていたが[9]、先の製作会見時に『霞ヶ関ビル劇映画』という題名で説明があり[12]、題名を一般募集し、結果は1968年8月中旬に全国有力紙に発表すると発表された[12]。1968年10月の週刊誌に『ああ36階』と書かれてあるが[2]、この一般募集で一席を獲得した『超高層のあけぼの』に決定し新聞にも公表した[14][21][22]

監督

監督は最初は深作欣二内田吐夢が挙がり[9]、1968年10月時点では監督は内田を予定していたと書かれた文献もあるが[2]、脚本にクレジットされている工藤栄一は、「最初から自分に監督オファーがあった」と話している[23]。内田は長く監修名義だったが、どんな役割だったのかは不明。この他、降旗康男が監督デビューして間もない頃、栗山富郎から、本作の監督をしないかと持ちかけられたと話している[24][25][26]。このようなオールスターの大作映画に新人を抜擢するのか意外であるが、降旗は「監修が上にいるのが気に入らない」「成功者の映画はやりたくない」などと断ったら、「負けた者の映画ならヤクザ映画だよ」とあるプロデューサーにアドバイスされ、これが降旗がヤクザ映画を多数手掛ける切っ掛けになったと話している[24][25]

脚本

「1968年12月に脚本担当者が降り」[27]「菊島脚本の不備」[28]と書かれた文献があり、工藤栄一は「最初は菊島隆三が脚本を書いていたが、企業映画でどうしても都合のいい話になり、自分で脚本を書くことになった」と話しており[23]、菊島隆三が原作クレジットなのは、菊島の原作というのは最初から無く、工藤が菊島の原作を脚色したものでもなく、菊島の書いた脚本を工藤が気に入らず、自分で書き直したため、菊島を原作としてクレジットに残しているものと見られる[18][29]。菊島と工藤の書いた部分が決定稿にどのような形で反映されているのかは分からない。もう一人、脚本としてクレジットされている岩佐氏寿は1967年に『超高層ビルのあけぼの』という本を共作で出している。工藤の話には岩佐は出て来ない。工藤は脚本執筆にあたり、鹿島の現場事務所などにも足を運んで現場作業員などにも取材し、6ヶ月くらいかかったと話している[23]。この脚本の遅れが悪循環を招き、自身が後に降板する因となった[14]

キャスティング

製作当時、日本俳優の外国映画出演が増え[30]、さらに20世紀フォックス製作による日米合作『トラ・トラ・トラ!』の撮影遅延が本作と同じようなタイミングでズレ[30]、同時期に撮影も重なったため、『トラ・トラ・トラ!』を選ぶ役者が多く[30]、出演予定者が次々辞退し、キャスティングに難航した[30]。本作も『トラ・トラ・トラ!』も出演予定者はトップスターばかりで皆スケジュールがビッシリ。製作の遅延で俳優と正式に出演契約が出来ていなかった[14]。1969年5月14日の封切りを先に決め、1969年2月頃から前売りを始めていたため、撮影と並行して代役を人選する事態となった[30]

まず、東映専属俳優・高倉健が『遅すぎた英雄』(『燃える戦場』)の準備で出られなくなったのがケチのつき始め[30][31]。高倉は1969年2月10日、同作のカメラテストのためフィリピンに行った[30]。また、鹿島建設が、三船敏郎ギャラ2000万円出してもいいと要望したため、東映が代わりに三船に交渉したが断られた[32]。三船の当時のギャラの相場は石原裕次郎と並び、日本の映画俳優最高額の700万円ともいわれたが[32]、自分たちの三船プロ石原プロ製作による大活躍もあって更に跳ね上がっていた[32]。三船には当時アメリカから『レッド・サン』のオファーも来ていたが[32]、三船の『レッド・サン』出演料には20万ドルといわれた[33]

本作は二部構成からなり、主演は二人で[34][35]、第一部の主役がビルの設計実務の中心的人物・佐伯構造設計課長、第二部の主役が江尻鹿島建設建築現場所長[36]。第一部の主役、佐伯構造設計課長役は1969年1月にあった最初の配役発表で、フリーの田村高廣が決まったと報じられた[36]。しかし田村は、口頭で本作出演を約束していただけとし[27][30]、『トラ・トラ・トラ!』に出演するという理由でクランクイン前日の1969年2月23日に突如降板[27][30]。栗山プロデューサーが田村の出演不能を数日前から予想し、二谷英明を候補に挙げ秘かに交渉を続けていたが二谷もスケジュールの調整が付かず、代役木村功が務めた[27]。木村はクランクイン翌日の1969年2月25日に電話連絡を受け、青俳の舞台公演が夜だけだったことから出演をOKし、翌日から撮影に参加するという慌ただしさだった[27]。木村は「脚本もまだ読んでいませんが、関川さんには義理がありますし、このところ映画出演の話は、たいていエロ、グロ、ヤクザものばかりですから。これは素材がしっかりしていますし、代役でも問題はありません」と話した[27]

第二部の主役・江尻所長も最初の配役発表で、東宝三橋達也が決定と報道されたが[36]、田村同様、『トラ・トラ・トラ!』に出演するため降板した[37]。その後、江尻役は丹波哲郎が務め、出演日数25日などと報道された[34]。この丹波も所属する太平洋テレビの清水昭社長が、他にメトロ・ゴールドウィン・メイヤーと『五人の軍隊』主演の交渉を行い[34]、こちらの話がまとまり、1969年3月7日にローマに向けて出発し、イタリアスペインロケなどで拘束期間は11週間となるため、本作を出演辞退し、代役を丹波サイドで立てるという条件で了承されたと報道されたが[34]、丹波は別の役で出演している。

鹿島建設会長役に出演交渉を受けていた山村聡は当時フリーで[29]、東映制作の連続時代劇ドラマ『あゝ忠臣蔵』の主役・大石内蔵助役との掛け持ちで、1969年2月25日の本作クランクイン当日まで『超高層のあけぼの』の出演を予定していた[29][38]。ところがクランクイン当日に『トラ・トラ・トラ!』で日本側の主役である山本五十六長官役が決定していた芦田伸介が突如、『トラ・トラ・トラ!』を降板[38]民藝の実力者・宇野重吉滝沢修が「黒澤さんが二年以上も構想を練ってこられた作品。黒澤さんのものでなくなった作品に出演するのは芸術家として信義にもとる」と芦田に圧力をかけたための断念だった[38]。このため山村が急遽、山本五十六役のオファーを受けた[27][38][39]。山村は『あゝ忠臣蔵』撮影のため、東映京都を往復する新幹線で『トラ・トラ・トラ!』の台本を読み[27]、「日本側に忠実に書いてあり役柄に不満はない。どうしても出演したい」と『トラ・トラ・トラ!』出演に意欲を燃やし[39]、東映と相談、本作撮影中の1969年3月5日に『超高層のあけぼの』の出演を正式に断った[39]。山村の代役には佐野周二が決まった[40]

本作から『トラ・トラ・トラ!』に移ったのは、山村聡、三橋達也、田村高廣の三人だが、複数の文献に、佐藤允も出演交渉中で[18][34]、『トラ・トラ・トラ!』出演で降りたと書かれたものがあるが[30]、佐藤は『トラ・トラ・トラ!』に出演していない。

田村正和の恋人役・土橋道子役は、1969年年明けに九重佑三子と発表されたが[29]、東映専属の橘ますみに変更された[41]。しかし橘がクランクイン前にムチ打ち症で一ヶ月の静養が必要となり[41]、第12期東映ニューフェイスの新人・藤井まゆみに交代した[41][42][43]。藤井はエログロ映画のオファーを次々断り、ようやく本作でデビューした[43]。 

生島治郎は、「企業PR映画に本名で登場する鹿島守之助江戸英雄ハレンチすぎる」と批判している[44]

監督交代

当初の監督・工藤栄一は、映画製作中に同じ鹿島が建設途中だった超高層ビルで、浜松町世界貿易センタービルを使う予定だった[7][15]。霞が関ビルは「H字鋼」という特殊な鋼材で組み立てられていて、着工当初からの同ビルの建設を再現するには、同じ鋼材を使う世界貿易センタービルでしか撮影ができなかった[15]。しかし同ビルの建設が予想以上に早く[7]、同ビルは緻密な工事日程に基いて建設が進み、撮影に大幅な便宜を図ることは出来ず[16]、着工当初からの建設を再現するのは不可能になった[7]。それなら霞が関ビルからそう遠くない場所に一部だけでもビルのセットを建てようと考え、隼町の現在、最高裁判所がある場所は当時は何もなかったので、そこに三階建てを立てて、下の地面を映さなければ、霞が関ビルからも極端に遠くはないし、東京の街が当時は下に見える感じになるので(と書かれている)そこへセットの建設を予定した[7][15][23]。当時の文献には三宅坂国立劇場ワキの空地と書かれている[7]仮設でも当時の金で3000万円かかるが、建設する方向で進んでいたが諸々トラブルがあって頓挫した[7][23]。工藤は乃木坂にあった東京大学研究所などにも足を運んで建築レクチャーも受ける等、本作の製作に一年を費やしていた[23]。岩佐氏寿は以前から親交のある関川秀雄をその間もずっと口説いていて[18]、工藤にもう少し金を抑えて出来ないか、世界貿易センタービルの現状をロケして上手く作れないのかという話になり、スケジュールの遅れでキャスティングにも支障をきたしていたことから[7]、鹿島サイドは工藤に降りてもらいたいという結論に達した[7]。既に前売りの発売を始めており[30]、このままでは製作中止に追い込まれると判断した[7]。工藤は一年近く準備に費やし、工事の恥部はいっぱいあり、そういう問題を映画で描けないなら、映画として値打ちはない、映画人として綺麗ごとだけの映画を作っていいものかと悩んだ。話し合いが何度か持たれ、工藤は降板を了承した[15][23]。工藤の監督辞任は1969年2月3日に発表され[7]、「第二の『トラ・トラ・トラ!』」と騒がれた[17]。脚本が遅れた挙句、演出をやめた工藤を「あまりにも無責任ではないか」と批判の声が上がった[7]。この降板発表の際、岩佐は「工藤監督の辞任は、彼の演出上の条件と製作者の考え方が合わなかったことです。予算の関係や、役者に危険なことをさせる撮影法など問題になる点が多いと判断した」などと述べた[15]。また関川秀雄監督に後任を交渉中で、1969年2月末のクランクインに間に合わせたいと発表があったが[7]、工藤監督辞任発表の翌日、1969年2月4日に関川は、東映東京撮影所に現れスタッフと打ち合わせと工藤と演出上の引き継ぎの話し合いを行った[45]。同日、監修担当の内田吐夢が東映本社岡田茂東映企画本部長を訪ね、監修辞退を申し入れた[45]。工藤は完成した映画は見ていないと話している[23]

後任監督を引き受けた関川は、「普通なら到底引き受けられる条件じゃなかった。ボクに交渉があった時点で引き受けなかったら、映画は出来なかったと思う。世界貿易センタービルの建設がシナリオより急ピッチに進んで、シナリオ改訂が必要になったし、そこへ持って来て、次から次へと配役が変更になるし、こちらの当初立てたスケジュールは次から次へと崩れて行きました。第三者的立場でいえば、何を楽しみにこんな悪条件の仕事を引き受けたのかという感じで、ぼくと岩佐氏との友情もあったし、鹿島建設が1億5000万円もの金を出して良心的映画を製作する決意をしているのに対して、日本の映画界が応えられなかったとしたら、映画人として恥ずかしいと思うよ。だから微力ながら日本映画界が物笑いにならないよう信用を守り抜こうと思って仕事を引き受けたんだ」と述べた[16][46]。 

撮影

1969年2月25日、東映東京撮影所の第14ステージでクランクイン[27]。妻子の待つ山形に帰省した建設現場の労務者伴淳三郎が我が家で正月を過ごす場面が撮影された[28]。撮影はほぼ東映東京撮影所で行われた[47]

世界貿易センタービルでの撮影は工事中で危険なのでやらずにスタジオでの撮影が予定されていたが[48]、撮影前日になり迫力を出すため、急に同ビルでのロケが決まり1969年3月25日、江戸英雄をモデルにした役の松本幸四郎が同ビルの11階、地上68メートルでロケを行った[48]。地響きをたてるブルドーザー、耳をつんざくドリル音、周囲にかこみがないのもおっかなビックリで、僅か一場面の撮影に二時間半を要した[48]。幸四郎は「東京の町の見物どころじゃなかった。まったく生きた心地がしなかったよ」と感想を述べた[48]

この他、1969年3月末に木村功、佐久間良子参加で長野県白馬八方尾根スキー場ロケ[49]。二人の共演は松本清張原作の『白い崖』以来9年ぶり[50]。この時も夫婦役だったが、当時はまだ佐久間はデビュー二年目で「右も左も分からない私に随分色々教わりました。木村さんはいつまでもお若いですね」と話すと、その間に東映のみならず、日本映画界のトップ女優の一人になった佐久間に「佐久間くんはすっかり成長しちゃって」と木村を驚かせた[50]。エロとヤクザの東映ではほとんど出る幕がない佐久間は、スタープロの映画作りが脚光を浴びていた当時は他社から引っ張りだこで、ホームグラウンドの東映での撮影は三か月ぶり。「東映でお仕事ができないことは私にとってやっぱり悲しい」と話した[51]。特に佐久間の心を沈ませていたのは『あかさたな』改題事件で(後述)、「人に題名を聞かれても答えることができません。商売が大事なのも分かりますが、あまりにも酷い」と不満を述べた[51]。佐久間の東映での製作予定はこの後もまったくなかった[51]

1969年4月10日過ぎ、クランクアップ[16]


注釈

  1. ^ 後に東宝の社長になった高井英幸スカラ座に勤務していたときに、1968年に2月10日に公開が決まっていた『遥か群衆を離れて』が封切一週間前に20分短いと判明した。それで関係者が急遽20分の短編映画を探し、短編『超高層のあけぼの』を併映作としてスカラ座で単館ロードショーをやったという[6]。2本の組み合わせが水と油で興行は厳しかったと話している[6]

出典

  1. ^ 『キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011』(キネマ旬報社、2012年)260頁
  2. ^ a b c d e f g h 「〔ルックげいのう〕 前売二百五十万枚約束した鹿島会長」『週刊現代』1969年6月27日号、講談社、32頁。 
  3. ^ a b c d e f クロニクルⅡ 1992, p. 48.
  4. ^ DVDソフト宣伝ポスターより
  5. ^ 「超高層のあけぼの」
  6. ^ a b 高井英幸『映画館へは、麻布十番から都電に乗って。』KADOKAWA、2010年、200–205頁。ISBN 9784048850803 
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t “工藤監督が突如辞任 製作費で意見対立 宙に浮いた『超高層のあけぼの』”. スポーツニッポン (スポーツニッポン新聞社): p. 10. (1969年2月4日) 
  8. ^ a b c d e f g h i j 「〔タウン〕 前売百五十万と鹿島の組織票」『週刊新潮』1969年5月10日号、新潮社、15頁。 
  9. ^ a b c d e f g h 「〔ルックげいのう〕 映画製作に乗り出した鹿島建設」『週刊現代』1968年6月27日号、講談社、31頁。 
  10. ^ a b c d e 「〔タウン〕 "空前"の記者団を集めたPR映画」『週刊新潮』1968年7月20日号、新潮社、15頁。 
  11. ^ a b c d “'68年の十大ニュース大企業の映画製作”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 1. (1968年12月14日) 
  12. ^ a b c d e f g 今村三四夫 (1968年7月6日). “東映、鹿島建設が『霞ヶ関ビル劇映画』 題名を一般から公募 第一席に36万円の懸賞”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 8 
  13. ^ 「企業タイアップ映画は起死回生薬? "ヤナギの下"狙う各社」『週刊サンケイ』、産業経済新聞社、1968年8月26日号、104頁。 
  14. ^ a b c d e f 今村三四夫 (1969年2月8日). “今週のことども霞ヶ関ビル映画 一瞬の監督交替”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 1 
  15. ^ a b c d e f g h i “超高層のあけぼの』の工藤監督が辞任 製作意見の違い 現場のセットなどできずに”. 報知新聞 (報知新聞社): p. 9. (1969年2月4日) 
  16. ^ a b c d “関川監督 最後の追いこみに大車輪 "超高層のあけぼの"(東映)”. 内外タイムス (内外タイムス社): p. 10. (1969年4月10日) 
  17. ^ a b “東京、京都、クランクイン2つ 『超高層のあけぼの』と勝新『手錠無用』”. スポーツニッポン (スポーツニッポン新聞社): p. 10. (1969年2月26日) 
  18. ^ a b c d “〈焦点 盲点〉 芸能界を襲ったハプニング劇 監督、スターの交代”. 東京タイムズ (東京タイムズ社): p. 7. (1969年2月17日) 
  19. ^ 「週間ダイヤル三行メモ」『週刊大衆』1968年6月13日号、双葉社、14頁。 
  20. ^ a b 「スクリーンステージガイド PR映画ブーム」『週刊平凡』1968年7月4日号、平凡出版、83頁。 
  21. ^ 「霞ヶ関ビルは日本一のでべそ」『サンデー毎日』1968年11月3日号、毎日新聞社、37頁。 
  22. ^ a b c d e 「宣伝マンが悩む"高尚な題名"」『週刊平凡』1969年3月20日号、平凡出版、55頁。 
  23. ^ a b c d e f g h 光と影 2002, pp. 152–156.
  24. ^ a b 高倉健×降旗康男「あなたへ」公開記念特集 page=3- KINENOTE
  25. ^ a b 「降旗康男監督 高倉健との軌跡を語る 聞き手・金澤誠、前野裕一 『あなたへ』までの軌跡」『キネマ旬報』2012年9月上旬号、キネマ旬報社、34–35頁。 
  26. ^ 15 テレビ映画の時代 中国でも「赤い・・・」シリーズ
  27. ^ a b c d e f g h i “東映で『超高層のあけぼの』 主役交代 不安なスタート 主演に木村功 田村高広が突然おりる”. 報知新聞 (報知新聞社): p. 15. (1969年2月26日) 
  28. ^ a b “田村高広の代役に木村功 『超高層―』撮影、快調にスタート”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社): p. 13. (1969年2月26日) 
  29. ^ a b c d “九重(四年ぶり)らが出演 建設映画『超高層のあけぼの』”. 報知新聞 (報知新聞社): p. 13. (1969年1月11日) 
  30. ^ a b c d e f g h i j k “スポット”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社): p. 13. (1969年3月7日) 
  31. ^ “高倉健国際スターの仲間入り米映画『遅すぎた英雄』に出演"第二の三船"を目指す"気を抜かず真剣勝負"”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社): p. 11. (1969年2月4日) 
  32. ^ a b c d 「〔タウン〕 映画スターのギャラの限界」『週刊新潮』1969年1月4日号、新潮社、15頁。 
  33. ^ 「〔ニューズオブニューズ〕 ミフネ・ブロンソン・ドロン競演」『週刊読売』1969年11月12日号、読売新聞社、32頁。 
  34. ^ a b c d e “丹波哲郎、MGM映画に主演 テーラー監督の『五人の軍隊』 3月7日ローマへ”. スポーツニッポン (スポーツニッポン新聞社): p. 10. (1969年3月1日) 
  35. ^ “九重(四年ぶり)らが出演 建設映画『超高層のあけぼの』”. 報知新聞 (報知新聞社): p. 13. (1969年1月11日) 
  36. ^ a b c “三橋、田村が主演"霞ヶ関ビル建設"映画”. 報知新聞 (報知新聞社): p. 13. (1969年1月25日) 
  37. ^ “三橋達也が出演 田宮の代わりに源田航空参謀役で”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社): p. 15. (1969年2月26日) 
  38. ^ a b c d “トラ・トラ・トラ五十六役 急転!山村聡と交渉 芦田伸介、やむなく辞退 民芸が圧力”. スポーツニッポン (スポーツニッポン新聞社): p. 10. (1969年2月26日) 
  39. ^ a b c “精力的に動き回る"山村五十六" 『トラ・トラ・トラ!』/山村聡、出演断る 東映『超高層のあけぼの』”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社): p. 10. (1969年3月6日) 
  40. ^ “佐野周二を起用『超高層のあけぼの』 山村聡の代役”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社): p. 11. (1969年3月12日) 
  41. ^ a b c “藤井まゆみが代役 『超高層―』田村の相手”. 内外タイムス (内外タイムス社): p. 3. (1969年3月15日) 
  42. ^ “スポット”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社): p. 11. (1969年3月9日) 
  43. ^ a b 「ハダカを拒否して大抜擢 『超高層…』でデビューの藤井まゆみ」『週刊明星』1969年5月18日号、集英社、134頁。 
  44. ^ 生島治郎「おれは野次馬 芸能 『PR映画が残すものは...』」『アサヒ芸能』1969年6月5日号、徳間書店、14頁。 
  45. ^ a b “後任に関川秀雄氏『超高層のあけぼの』の監督”. 報知新聞 (報知新聞社): p. 10. (1969年2月5日) 
  46. ^ “大車輪の関川監督 『超高層のあけぼの』アップ寸前 悪条件に挑戦 映画界の面目にかけて”. 東京タイムズ (東京タイムズ社): p. 7. (1969年4月11日) 
  47. ^ a b c d e f g h i j k l m 「〔ルックげいのう〕 史上最高一億の宣伝費を使った鹿島」『週刊現代』1969年5月22日号、講談社、32頁。 
  48. ^ a b c d “地上68メートルでロケ 青い顔の幸四郎 『超高層のあけぼの』”. 報知新聞 (報知新聞社): p. 11. (1969年3月26日) 
  49. ^ “格好だけは一人前 佐久間良子、白馬を滑る 東映ロケ”. 報知新聞 (報知新聞社): p. 9. (1969年4月1日) “躍進する東映グループ”. スポーツニッポン (スポーツニッポン新聞社): p. 12. (1969年4月17日) 
  50. ^ a b “佐久間良子と木村功が九年ぶりに共演『超高層のあけぼの』”. 内外タイムス (内外タイムス社): p. 10. (1969年3月19日) 
  51. ^ a b c “三ヶ月ぶりの本拠地・東映で 『超高層のあけぼの』の佐久間良子 エロ、グロには反発”. 内外タイムス (内外タイムス社): p. 7. (1969年3月10日) 
  52. ^ “ペンざら”. スポーツニッポン (スポーツニッポン新聞社): p. 10. (1969年5月4日) 
  53. ^ a b c 「『超高層のあけぼの』のヒットに渋い顔」『週刊平凡』1969年6月12日号、平凡出版、55頁。 
  54. ^ a b c 「〔タウン〕『超高層のあけぼの』の陰で泣く人々」『週刊新潮』、新潮社、1969年5月31日号、15頁。 
  55. ^ “『荒い海』好調な伸びすでに百万枚を突破日活『超高層―』以上か”. 内外タイムズ (内外タイムス社): p. 6. (1969年9月22日) 
  56. ^ a b c 「ハイライト69〈スクリーン〉 斜陽もここまで来てはもう救いようがない?」『週刊朝日1969年昭和44年)12月26日号 109頁、朝日新聞社 
  57. ^ 「映画界東西南北談議 明るい話題続出の映画界 各社、下半期にも話題作をそろえて活気」『映画時報』1974年8月号、映画時報社、35頁。 
  58. ^ 「ピンク色に染まる"ヤクザ東映"」『サンデー毎日1969年昭和44年)1月5日号 45頁、毎日新聞社。 東映株式会社映像事業部『東映映画三十年 あの日、あの時、あの映画』東映、1981年、125頁。 
  59. ^ 文化通信社『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』ヤマハミュージックメディア、2012年、328-329頁。ISBN 9784636885194 
  60. ^ 暴力とセックスはあたりまえ!ヤクザ、スケバン、ハレンチ!「東映不良性感度映画」を特集-映画秘宝杉作J太郎植地毅「東映ピンキー・バイオレンスのゴッドファーザー 岡田茂&天尾完次を称えよ!! 文・伴ジャクソン」『東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム』徳間書店、1999年、36-37頁。ISBN 4198610169 
  61. ^ a b c d 初山有恒「エロとヤクザと観客 ―東映独走のかげにー」『朝日ジャーナル』、朝日新聞社、1969年3月30日号、23 - 26頁。 
  62. ^ 新文芸坐石井輝男 映画チラシ福永聖二 (2015年8月26日). “〔カルチャー〕 アクションとカルト 二つの顔…石井輝男”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社). オリジナルの2015年8月20日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/m5Q5M 2019年5月3日閲覧。 「石井ハレンチ監督の意外な意気軒昂 助監督の造反にもゆるがぬ東映性愛路線」『週刊朝日』1969年5月2日号、朝日新聞社、152 - 154頁。 「東映助監督会がエロ・パージの声明 攻撃目標は石井監督作品」『週刊明星』1969年5月4日号、集英社、146 - 147頁。 「さらば! 我らが天才監督 石井輝男の世界 京都撮影所助監督声明事件の真相」『映画秘宝』2005年11月号、洋泉社、42 - 43頁。 
  63. ^ a b 「映画界東西南北談議 松竹の後藤常務の辞任など映画界、春のハプニング」『映画時報』1969年5月号、映画時報社、27頁。 
  64. ^ a b 「44年度の邦画興収ベスト20東映がトップで十一番組」『映画時報』1970年2月号、映画時報社、21頁。 
  65. ^ “好調な出足 『超高層のあけぼの』”. スポーツニッポン (スポーツニッポン新聞社): p. 12. (1969年5月15日) 
  66. ^ a b “業界覆面ティ談会 東映任侠ショック 企画依然好調 今期の配収は三十五億を突破”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): pp. 17-18. (1969年7月19日) 
  67. ^ “広告”. スポーツニッポン (スポーツニッポン新聞社): p. 10. (1969年6月26日) 
  68. ^ “東映、岡田映画本部長(常務) 来季の製作構想を語る”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 5. (1969年6月21日) 
  69. ^ a b c d e “『超高層のあけぼの』(独立プロ作品)早くも来年一月、テレビ上映映画五社の申し合わせに影響?”. 報知新聞 (報知新聞社): p. 13. (1969年11月14日) 
  70. ^ a b c 「〔タウン〕 『超高層のあけぼの』九百万でテレビへ」『週刊新潮』1969年11月29日号、新潮社、21頁。 
  71. ^ 快楽亭ブラック「師匠、てえへんだぁ! 第162回 『超高層のあけぼの』 イヤー見事につまらなかった!単なる大企業PRムービー」『映画秘宝』、洋泉社、2017年11月号、103頁。 
  72. ^ 「東映女優祭り」で三田佳子、佐久間良子、緑魔子らの出演作20本上映
  73. ^ 幻のマンモス超大作映画『超高層のあけぼの』がDVD化!
  74. ^ Schilling, Mark 「Airplane flick tells only half the storyジャパンタイムズ 2008年11月14日 (金)、2010年2月19日閲覧
  75. ^ 妾二十一人 ど助平一代”. 日本映画製作者連盟. 2018年10月7日閲覧。
  76. ^ 映画『末っ子大将(暴れん坊大将)』上映と講演会|インフォメーション おもちゃ映画ミュージアム木村荘平氏の功績を偲ぶ - 宇治茶発祥の地「京都・宇治田原町」食イベント
  77. ^ a b c “(私の履歴書佐久間良子(14) 出演取りやめ、歯車狂う東映の路線とのズレ広がる”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社): p. 40. (2012年2月15日) 東映カレンダー on Twitter: "2012年2月15日の日本経済新聞
  78. ^ a b c d e 内藤誠『監督ばか』彩流社〈フィギュール彩(16)〉、2014年、62-63頁。ISBN 978-4-7791-7016-4 【レポート】内藤誠レトロスペクティブはココだけバナシの宝庫!? 映画『明日泣く』最新情報(Internet Archive)
  79. ^ 押川義行「今月の邦画から やくざ映画の袋小路」『映画芸術』、映画芸術社、1969年5月号、79頁。 「トピックコーナー 女性路線スタート」『映画情報』、国際情報社、1968年9月号、67頁。 
  80. ^ 「〔観客の目 映画〕」『週刊文春』、文藝春秋、1969年2月10日号、17頁。 
  81. ^ a b c 「〔タウン〕深夜族を失笑させた題名」『週刊新潮』、新潮社、1969年3月22日号、17頁。 深沢哲也 (1969年3月8日). “〈ばらえてい7 封切り館〉 『明治の風俗を描いた軽喜劇 東映 …ど助平一代』”. 報知新聞 (報知新聞社): p. 13  もちろん『花札渡世』の撮影台本も入手。 - kimata kimihiko Twitter
  82. ^ 快楽亭ブラック「師匠、てえへんだぁ! 第151回 『喜劇夫売ります!!』」『映画秘宝』、洋泉社、2016年11月号、101頁。 
  83. ^ 「GOSSIP&SNAP 久しぶりの東映スタジオ」『月刊平凡』1969年6月号、平凡出版、240頁。 
  84. ^ a b スポーツニッポン (スポーツニッポン新聞社): p. 10. (1969年6月10日) 
  85. ^ 井沢淳・高橋英一・鳥畑圭作・キネマ旬報編集部「TOPIC JOURNAL ウワサのウワサ・二つの動き」『キネマ旬報』1968年 4月上旬号、キネマ旬報社、24-25頁。 
  86. ^ a b c 「ヤングパワー経営戦略蘇りを見せた日本映画界各社の前途に好材料揃うすべて順調に前進を続ける東映」『映画時報』1969年9月、10月号、映画時報社、18 - 20頁。 
  87. ^ 「巻返しを計る各社の表情を探る 洋高邦低の声に必死の努力を続ける 岡田社長を頂点にますます業績増大の東映」『映画時報』1976年4月号、映画時報社、10頁。 
  88. ^ a b 後藤田実夫(東映・電子計算室長)・竹中清之介(経済評論家)・波多野三郎(日本ヘラルド映画専務取締役)・司会北浦馨「情報産業とは何か?映画復興効率化の拠点として各社の研究初まる。或る会社はすでに実用化の段階」『映画時報』1969年4月号、映画時報社、12 - 20頁。 
  89. ^ 「東映大型経営性交の全貌東映産業グループの陣容いよいよ拡充」『映画時報』1969年5月号、映画時報社、30 - 31頁。 
  90. ^ 『日本TVアニメーション大全』世界文化社、2014年、316-323頁。ISBN 9784418149018 増田弘道 『アニメビジネスがわかる』解説53沿革|IR情報|東映アニメーション株式会社アニメ「ゲゲゲの鬼太郎」50周年サイト - 東映アニメーション【ファミ通インタビュー】ドローイングソフトの進化の歴史はセルシスの歴史
  91. ^ “広告”. スポーツニッポン (スポーツニッポン新聞社): p. 8. (1969年5月13日) 「SCREEN GUIDE 試写室 『超高層のあけぼの』」『週刊明星』1969年5月18日号、集英社、71頁。 


「超高層のあけぼの」の続きの解説一覧




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「超高層のあけぼの」の関連用語

超高層のあけぼののお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



超高層のあけぼののページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの超高層のあけぼの (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS