横山エンタツ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/14 13:53 UTC 版)
横山 エンタツ | |
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本名 | 石田 正見[1] |
生年月日 | 1896年4月22日[1] |
没年月日 | 1971年3月21日(74歳没)[1] |
国籍 | 日本 |
出身地 | 兵庫県有馬郡三田町横山 |
言語 | 日本語 |
最終学歴 | 兵庫県立伊丹中学校中途退学 |
コンビ名 | 横山エンタツ・花菱アチャコ |
相方 | 花菱アチャコ |
芸風 | 漫才 |
立ち位置 | 左 |
事務所 | 吉本興業 |
親族 |
花紀京(次男) 中山美保(長男の嫁) |
弟子 |
横山ノック 青芝フック など |
花菱アチャコとのコンビ(横山エンタツ・花菱アチャコ)によって、それまでの「萬歳」に代わる現在の(全国的に流布した)「しゃべくり漫才」のスタイルを発明し、今につながる漫才の形式の基礎を作った。漫才作家秋田實のよき相談者として上方漫才、喜劇の興隆に大きく貢献した。
「横山」の亭号を名乗る漫才師一門はエンタツを始祖とする。横山ノックらは弟子にあたる(一門については下記)。吉本新喜劇初期の出演者でもある。
来歴
兵庫県有馬郡三田町横山[2]で生まれた(長沖一は、その著書『上方笑芸見聞録』の中で姫路としている)。祖父は元藩医で、父も医師であった。近所に軍人が多い環境で、父も軍医になって日露戦争へ出征したため、祖父母のもとに預けられる。終戦後、復員した父は姫路市で医院を開業。それにともない一家は姫路に移り住んだ。
旧制兵庫県立伊丹中学校(現在の兵庫県立伊丹高等学校)を2年で中退し、「馬賊になる」と言って家出。大正の初め頃、ソウル(京城)に住む叔父を頼り朝鮮へ渡ったが、「面倒をみられない」と言われ、叔父宅での居住を断念。その後、職を転々とした(このころ関西大学の夜間部に通ったという説もある)。演歌師に弟子入りしたり、炭坑で働いていたこともあったという。
1914年、新派の「綾田五郎一座」に入り初舞台。役者としての活動をはじめた。満州・大連で新派連鎖劇の一座に入り、旅順、奉天、長春と巡業をしていたとき、座長が裁判官に拘引され一座を解散、残った仲間で満州で小中村千代兵衛の一座に転じたのち、鉄嶺では活動写真巡業隊に入って声色師をやったがうまくいかず、帰国した。その後、時田一瓢一座に入り「
1919年、花菱アチャコと一座を組み、幕間に「しゃべくり漫才」を試演するが、このときは不評に終わった。1922年、本格的に漫才を始める。 東京を拠点に活動をはじめた。1923年夏に横浜の朝日座と契約し漫才、民謡、安来節の芸人らと合流。同年9月、巡業中の横浜の旅館で関東大震災に遭遇し、倒壊した旅館の3階部分から地面へ投げ出され、鼻を骨折するなどの重傷を負ったため、一時帰阪している[3]。
1928年ごろから、「横山エンタツ」を名乗りはじめた。東京・蔵前に住んでいた当時のエンタツの痩せた風貌が、蔵前のランドマークであった東京高等工業学校の煙突を思わせたことから、芸人仲間に「エンタツ(煙突の大阪訛り)」と呼ばれていたことが由来とされる[4]。初期には「円辰[4]」の字を充てていたとも、「横山エントツ」と名乗っていたともされる。1929年に自身の一座を結成し、同年8月31日から漫才師、浪曲師、踊り子など9人[4]を引き連れて半年間アメリカ巡業に出る。興行的に失敗したが、そこで見たチャップリンなどの喜劇に大きな影響を受けた。
秋田實の助言で、漫才師として初めて背広姿で舞台に上がった。玉子屋円辰や砂川捨丸に代表されるように、従来の「万才(萬歳から呼び名が変わっていた)」は鼓を脇に持ち、和装であったものを、当時流行し始めた背広姿で、当時人気のあった東京六大学野球からネタをとった『早慶戦』などのネタに代表されるように、サラリーマンの日常会話を思わせる話題選びと展開の形式は画期的で、当初は舞台に出ると「ホンマの万才をやれ[4]」と野次が飛んだというが、やがて、勃興したばかりの中産階級層を中心に人気を博していった。コンビが1934年に東京の新橋演舞場に出演した頃には、漫才は「落語と並ぶ地位を得た」と言われるようになる。
この東京公演の期間中、アチャコが中耳炎を悪化させ、それがもとで大阪に戻って間もなく入院してしまう。そのためエンタツはアチャコとのコンビを解消し、杉浦エノスケと組んだ。その後も舞台でエンタツ・アチャコのコンビが復活することはなかった[注釈 1]。エンタツ・アチャコの本格的な活動期間は、のべ3年9か月であった[5]。1941年、エンタツは「爆笑エンタツ劇団」を旗揚げし、全国巡業を開始した。
戦後、エンタツはNHKで『気まぐれショウボート』(1950年 - 1952年)、『エンタツちょびひげ漫遊記』(1952年 - 1953年)、『エンタツの名探偵』(1953年 - 1954年)など、長期にわたってラジオ番組のレギュラーを務めた。これらの番組は東映で映画化され、こちらもヒットとなった。ただし、アチャコの戦後のしたたかな大成功と比較すると見劣りがし、漫才コンビ時代と立場が逆転することとなった。息子である花紀京には「自分には芸の力がない」と弱音を吐いていたこともあったという。
1953年12月24日に千日前グランド劇場改築の杮落し公演で、エンタツはアチャコと久しぶりに客の前で漫才『僕の家庭』を披露した。同演目は1963年にはNHKで放送された「漫才の歴史」の番組『漫才繁盛記』(構成:小林信彦)においても披露された。
エンタツは1969年、大阪市から市民表彰を受けた。1971年に脳梗塞で死去した。74歳没。
歴代相方
中村種春(砂川捨丸の最初の相方。中村春代の師匠)、花菱アチャコ、杉浦エノスケと組んだ。
注釈
出典
- ^ a b c d e 横山エンタツ コトバンク - 典拠は『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』、講談社『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』など
- ^ 現在の三田市横山町(〒669-1534)、南が丘(〒669-1535)。横山駅が所在する。
- ^ 小島貞二『漫才世相史 改訂新版』 毎日新聞社、1978年 pp.130-133「震災以前の万才」 - エンタツの著書『漫才読本』(柳香書院、1936年)からの引用。
- ^ a b c d 小島貞二『漫才世相史 改訂新版』 毎日新聞社、1978年 pp.108-112「医者と坊主の息子」。同資料では、エンタツの出身を「姫路の生まれ」としている
- ^ 矢野誠一『昭和の演藝 二〇講』p.68
- ^ 祖田浩一(編)『昭和人物エピソード事典』(東京堂出版、1990年)pp.305-306 - 典拠は『週刊女性』昭和46年4月10日号
- ^ 立川談志ひとり会特典CD「とっておきの二大対談・花菱アチャコ/手塚治虫」
- ^ “花紀京さん死去 横山エンタツさん次男 新喜劇全盛期を支える”. スポーツニッポン (2015年8月6日). 2015年8月6日閲覧。
- ^ にっぽん笑売人 - テレビドラマデータベース
- ^ 「おかえりモネ」から「カムカムエヴリバディ」へ! NHK PR(NHKオンライン)、2021年10月22日配信、10月23日閲覧
- 1 横山エンタツとは
- 2 横山エンタツの概要
- 3 人物・芸風・エピソード
- 4 横山エンタツを演じた俳優
固有名詞の分類
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