小諸藩 藩史

小諸藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/16 13:21 UTC 版)

藩史

仙石家の時代

小諸藩祖、仙石秀久
小諸藩第2代、仙石忠政

小諸藩の藩祖は、豊臣秀吉の家臣・仙石秀久である。秀久は九州平定の前哨戦である戸次川の戦いでの敗戦で改易後、小田原征伐で功績を挙げ、天正18年(1590年)に秀吉から信濃国小諸5万石を与えられ、翌年に入封した[13]。秀吉没後の慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠率いる上田城攻めの東軍別働隊に属したため[13]、戦後も領地は安堵された。慶長8年(1603年)に徳川家康江戸幕府を開き幕藩体制を開始した結果、秀久が小諸藩の藩祖となった。初代藩主となった秀久は精力的に領国開発を行い、小諸城と城下町の発展に寄与した。小諸城外郭の濠を掘り、用水を開削した[13]。さらに中山道の伝馬・駄賃の制度を定め、宿場町を整備して笠取峠に松並木を植えたが、この松は現在も存在して長野県天然記念物となっている[13]。他にも小諸城の改修、城下町建設などに尽力したが、このように秀久の連年の賦役で慶長15年(1610年)頃には小諸の田地は荒廃して佐久郡の農民は一郡逃散する有様だった[14]

慶長19年(1614年)、秀久が死去した。跡は子の忠政が継いだ[14]。忠政は父の苛政により逃散した農民を帰村させる事に尽力した[15]。同年からの大坂の陣では徳川方に与した[15]。元和3年(1617年)には各村の収量表示を貫高制から石高制に改めた[15]元和8年(1622年)、関ヶ原・大坂の陣における仙石家の功績と忠義により、1万石を加増されて6万石で信濃上田藩へ移封され、小諸藩は一時、廃藩となった[15][16][注釈 1]

廃藩(甲府藩領)の時代

仙石家の上田藩移封廃藩後、小諸の地は第2代将軍・秀忠の3男忠長甲府藩主20万石)の所領として併合された[15]。小諸城代は屋代秀正三枝昌吉、依田守直らが務めた[15]。代官は設楽権兵衛、岩波七郎右衛門、平岡岡右衛門が務めた[15]寛永元年(1624年)に駿府藩50万石に加増で移封される[15]

松平憲良の時代

寛永元年(1624年)、松平憲良美濃大垣藩より5万石で入った[17]。憲良は庶兄忠節小県郡禰津5000石を分与し[17]、寛永年間に新田開発、用水路開削、検地、小諸城本丸御殿の普請を行なった[18]。憲良は正保4年(1647年)に死去して嗣子が無く改易されてしまい、小諸藩は廃藩となり天領として松本藩に預けられた[18]。松平家は憲良の弟康尚(良尚)が、1万石で伊勢長島藩に移封されて存続した[18]

青山宗俊の時代

慶安元年(1648年)、大番頭より抜擢された青山宗俊が3万石の大名として小諸に入り[19]、また信濃国内の1万5000石の天領を預かった。宗俊は老中青山忠俊の息子で[19]、八重原用水・御影用水などが造られている。また新田開発植林事業などが慶安年間に行なわれた[19]寛文2年(1662年)3月、宗俊は2万石を加増されて大坂城代に転出し、5月に丹波篠山藩に移封された[19]。この時代に行なわれた用水路工事はかなりの難工事だったと伝わる[19]

酒井忠能の時代

酒井忠能上野伊勢崎藩より3万石で入った[20]。この忠能は江戸幕府初期の老中酒井忠世の孫で[20]、同じく老中・大老を務めた酒井忠清の弟である[20]

忠能は寛文10年(1670年)、領内に検地を実施したが[20]、これは青山時代に治水工事が行なわれて新田開発が進み、再検地の必要性があったためといわれる[20]。だが延宝6年(1678年)の検地で年貢を増徴し、雑税として家・窓・妻・板敷・家畜にまで諸運上を課し、それらが未納の際には家財や俵、石臼、農具を没収するという百姓に対して苛酷な政治を行なったため、百姓は餓死したり乞食になったり、領地から逃散したりして遂には領内で領民による一揆が発生した(芦田騒動)[20]。だが忠能は庄屋の訴えを聞き入れず、百姓は総決起して幕府に強訴するも、当時は忠清が絶頂の時であり幕府は首謀者を処刑し、延宝7年(1679年)に忠能を駿河国田中藩へ移封させるという喧嘩両成敗を行なって騒動を沈着させた[20]。この時の忠能の移封を小諸の民衆は喜び、「地獄極楽さかい(酒井)にて、日向出てゆくおき(隠岐守=西尾氏)は極楽」という落首が読まれた[20]

西尾忠成の時代

酒井忠能と入れ替わりで西尾忠成が2万5000石で入る[21]。忠成は忠能の失政を改めようと尽力し、延宝8年(1680年)に領民の心得、年貢、藩役人の心得などを定めた領内法度を定めた[21]。忠成は小諸藩の騒動の後始末と治世の安定に尽力したが[21]天和2年(1682年)、忠成は遠江横須賀藩へ移封された[21]

石川松平家の時代

西尾忠成に代わって常陸小張藩より松平乗政が2万石で入った[22]。乗政は幕府若年寄奏者番であり[22]、入封した年の7月に17か条の領内制度を定めて領民統制を細分化して治世の基本とした[22]。翌年には新田開発に着手したが[22]貞享元年(1684年)に死去した[22]

乗政の死後はその子・松平乗紀が継いだ[23]。乗紀は父の領内法度を受け継いで藩政を行ない、新田開発を行ない、領民の祭礼行事を保護した[23]元禄15年(1702年)に美濃岩村藩へ移封された[24]

牧野家の時代

元禄15年(1702年)に越後国与板藩より牧野康重が1万5000石で入ることで[25]、ようやく藩主家が安定し、廃藩置県まで藩主を務めた。康重は、本庄宗資の4男で[26]牧野康道の養子に入った人で本庄氏の一族に連なったので[26]、5代将軍・徳川綱吉の生母、桂昌院の義理の甥にあたる。康重には、特別な功労があったわけではないが、桂昌院との縁故により3万石の領地が与えられて、5万石並の格式である小諸城主に栄転となった。康重は綱吉の従弟にあたるため、当初から実際は3万石以上の領地を与えられたが、格式上1万5000石とされた。嫉妬や批判を警戒したためであろうとする説がある。小諸城主に着任後、牧野家は、熱心に新田開発に取り組み約180年間で、9000石を増産した(幕末の実高〔内高とも云う〕は、3万9000石)。小諸藩主・牧野家の出自は、牧野康重の祖父・康成が、長岡藩・牧野家の領地のうち1万石を分与されて、三島郡与板に陣屋を構えて立藩した譜代極小藩であった。また小諸藩・牧野家は、長岡藩の領地と家臣団を分与されたという由来があったため、本藩の長岡から政事上の監督を受け、家風は長岡を見習うこととし、家老人事をはじめ重要事項は長岡藩の内諾を得る必要があり、その旨の誓約書が長岡藩に提出されていた。小諸に実質3倍の栄転となった牧野家は、まず家臣団の増員に迫られた。その給源としてまず求められたのは古参の足軽50人、同じく中間20人であった。また高崎で浪人暮らしをしていた上野国沼田藩・真田家浪士を数人程度、また信濃国の郷士や浪人を数人程度、士分として新規召し抱えをした。石高・家臣の員数とに比べて小諸城は大きかったため、城下の足軽の多くは長屋に入らず、門戸・玄関を持つ一戸建ての屋敷を与えられた。これは諸藩と比較した場合、珍しい例である。享保年間、康重は朝鮮通信使来朝の迎馬御用、日光祭礼奉行を務めたが[25]、享保7年(1722年)11月8日に死去した[25]

康重の跡を継いだ息子康周時代の寛保2年(1742年)8月1日、千曲川流域で未曾有の大水害(「戌の満水((いぬのまんすい)」)が起こり、濁流が城下へ押し寄せた。三の門が流出したほか家屋も多数流出し、溺死を中心に小諸藩だけでも死者584人が出るという大被害に至った。その後も水害が起こり、ときには幕府に救金2000両を要請するほどであった[27]。また康周は元文年間に薬用人参の栽培を開始し[28]、年貢を検見法から定免法に改め、延享4年(1747年)には倹約令を出すなどして財政政策に尽力したが[27]、享保11年(1726年)と享保14年(1729年)に領内の火事で被害を受けるなど災害も多かった[28]。康周は宝暦8年(1758年)に死去した[27]

3代・康満天明3年(1783年)、浅間山天明大噴火がおこり、凶作となった。ときの城代家老・牧野八郎左衛門載成が噴火の様子を著述した日記が現存しており、史料的価値が高いとされる。3代康満の治世からその隠居後にかけて、康満が文化人として、また側室を多く持ち子だくさんであったこと、旅行好きであったことなどで小諸藩が最も浪費・放漫財政をした時期であった。家老・牧野八郎左衛門載成は失脚して閉門・減石処分となった。なお、この浅間山の噴火で小諸領内は荒廃して天明の飢饉が始まり、天明騒動という一揆も起こった[29]。それ以前にも康満は奏者番・日光祭礼奉行を務めており、寛保年間の水害の後始末もあって出費も重なった[30]。天明4年(1784年)、康満は息子の康陛に家督を譲って隠居した[29]

第4代藩主康陛は、天明の飢饉の復興のために藩政の引き締めを図り、「康陛公御代覚書」を出した[31]。また藩財政補助のため、役料1万石が付く大坂加番に嘆願して自ら就任した[31]。天明8年(1788年)には倹約令を出し、70歳以上の者の隠居を命じたりしたが、寛政年間に入って台風により千曲川が大洪水になって藩内は大被害を受け、また小諸荒町の大火で大被害を受けるなどする中で、康陛は寛政6年(1794年)1月に死去[32]

第5代藩主康儔は奏者番になったが、わずか6年の在任で早世した[32]

6代・康長は学問家であり、文学奨励し文化2年(1805年)、信濃における諸藩に先駆けて藩校明倫堂を開校した。この藩校では学問の他に剣術・砲術・馬術・槍術を必須科目とし、「父は義」・「母は慈」・「子は孝」・「兄は友」・「弟は恭」の五教を明倫堂の教訓として多くの子弟教育を行なった。家老・稲垣源太左衛門正良を改易・取り潰しにした。また油菜の栽培を奨励したりしたが、文政2年(1819年)に隠居した[33]

跡を継いだ康長の弟の康明は病弱で、在任8年で早世[34]。その跡を継いだ康命も病弱で、在任6年で早世した[35]

9代・康哉は、井伊直弼大老派に属していた[36]奏者番、安政5年(1858年)に若年寄などの要職を歴任して直弼の懐刀となる[36]。藩政では殖産興業に務め[37]天保の飢饉の際には被害が大きく、家中の扶持米を都合して急場を凌いでいる。また西洋から種痘の医術が伝来したのを見て、藩医を江戸に派遣してこれを学ばせた。そして天然痘で苦しむ領民に強制的に種痘を実施した。領民は最初、種痘を信用しなかったため、康哉は我が子に種痘を実施して証拠を見せた。種痘はその後も実施され、小諸藩は全国諸藩に先駆けて種痘が2万人以上も実施されたと言われている。財政改革を中心とする藩政改革にも着手したほか、家臣の俸禄制度にも切り込んだ。綱紀粛正もはかり、過失と非行を繰り返す木俣氏から、家老の家柄をとりあげた。そのほか職務怠慢や、酒ばかり飲んでいる家臣は遠慮なく懲戒処分としたり、隠居させた。また庶民に対して、無謀な迷惑をかけた家臣も懲戒処分とした。これらの詳細内容と家臣の姓名は史料として現存している。また小諸城下の豪商・小山久左衛門・柳田五兵衛・高橋平四郎等を、特権的商人となし、産業経済の醸成を図ったが、果実を得たのは、明治維新後となった。

文久3年(1863年)に最後の藩主となった康済(康哉の子)の時には、慶応2年(1866年)には小諸騒動が起こる。このときは河井継之助の調停によって解決している。慶応4年(1868年)、康済は信濃追分において赤報隊と戦ってこれに勝利したが、これが原因で新政府に逮捕された。その後、岩倉具視碓氷峠の守備などで功を挙げたため罪を許されたが、直後に小諸騒動が再燃して藩内で混乱が続いた。

明治元年(1868年)11月9日(新暦12月22日)、小諸藩主・牧野康済は、家臣の加藤六郎兵衛成美・牧野求馬成賢等に騙されて、家老ほか4名の斬首刑を執行。これを知った家老1名は、出奔という事件がおきて混乱を極め、統治不能となった。結局、加藤六郎兵衛・牧野求馬の謀略は露見して、加藤は永禁固(無期禁固)、牧野求馬は家は閉門、本人は禁固・出獄後は謹慎・刀取りあげ・親子兄弟以外面会禁止となったほか、加藤・牧野求馬一派は処罰された(詳細→小諸騒動)。

藩主・康済は、明治2年の版籍奉還により小諸藩知事となる。その後も藩内両派の確執が続き、江戸時代の家老に相当する大参事を自前で出すことができず、本藩の長岡から大参事を招聘した。

明治4年(1871年)7月の廃藩置県により小諸県となり、康済は従五位下に叙せられ、小諸県知事に任じられた。同年12月に小諸県は長野県に吸収された。

藩主家は、康済が康民と名を改めて、華族子爵)に列したが、その家督を相続した康強は、妻帯をせずに子がないまま没した。このため公家出身の嵯峨公勝・南加の男子・嵯峨次郎を養子(牧野康熙と改称)として辛うじて存続された。


注釈

  1. ^ 上田への移封は忠政の嘆願といわれ、秀忠も上田藩主真田家上田合戦で苦しめられた経緯から真田を上田より引き離したかったという。

出典

  1. ^ 塩川 2007, p. 10.
  2. ^ 塩川 2007, p. 16.
  3. ^ 塩川 2007, p. 18.
  4. ^ a b 塩川 2007, p. 19.
  5. ^ a b 塩川 2007, p. 20.
  6. ^ 塩川 2007, p. 21.
  7. ^ a b 塩川 2007, p. 22.
  8. ^ 塩川 2007, p. 23.
  9. ^ a b c 塩川 2007, p. 24.
  10. ^ 塩川 2007, p. 25.
  11. ^ a b 塩川 2007, p. 26.
  12. ^ 塩川 2007, p. 27.
  13. ^ a b c d 塩川 2007, p. 117.
  14. ^ a b 塩川 2007, p. 118.
  15. ^ a b c d e f g h 塩川 2007, p. 119.
  16. ^ 青木 2011, p. 39.
  17. ^ a b 塩川 2007, p. 120.
  18. ^ a b c 塩川 2007, p. 121.
  19. ^ a b c d e 塩川 2007, p. 122.
  20. ^ a b c d e f g h 塩川 2007, p. 127.
  21. ^ a b c d 塩川 2007, p. 128.
  22. ^ a b c d e 塩川 2007, p. 129.
  23. ^ a b 塩川 2007, p. 130.
  24. ^ 塩川 2007, p. 131.
  25. ^ a b c 塩川 2007, p. 138.
  26. ^ a b 塩川 2007, p. 137.
  27. ^ a b c 塩川 2007, p. 140.
  28. ^ a b 塩川 2007, p. 139.
  29. ^ a b 塩川 2007, p. 142.
  30. ^ 塩川 2007, p. 141.
  31. ^ a b 塩川 2007, p. 143.
  32. ^ a b 塩川 2007, p. 144.
  33. ^ 塩川 2007, p. 146.
  34. ^ 塩川 2007, p. 147.
  35. ^ 塩川 2007, p. 148.
  36. ^ a b 塩川 2007, p. 154.
  37. ^ 塩川 2007, p. 149.






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