リヒャルト・ワーグナー 生涯

リヒャルト・ワーグナー

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生涯

幼少期

ライプツィヒのワーグナーの生家

1813年ザクセン王国ライプツィヒに生まれる。父カール・フリードリヒ・ワーグナー(Carl Friedrich Wagner (1770–1813))は警察で書記を務める下級官吏であったが、フランス語に堪能であったため、当時ザクセンに駐屯していたナポレオン率いるフランス軍との通訳としてたびたび駆り出された。カールはリヒャルトの生後まもなく死去する。母ヨハンナ・ロジーネ・ワーグナー(Johanna Rosine Wagner)はカールと親交があった俳優ルートヴィヒ・ガイヤーユダヤ人・実父説もあり)と再婚した[1]。ワーグナ一家は音楽好きで、家庭内で演奏会などをよく開くなど幼時から音楽に親しみ、リヒャルトの兄弟の多くも音楽で身を立てている。特に一家とも親交があった作曲家カール・マリア・フォン・ウェーバーから強い影響を受ける。1817年にドレスデン宮廷歌劇場音楽監督に就任したウェーバーは若きワーグナーにとって憧れの人物で、生涯敬意を払い続けた数少ない人物だった[2]。15歳のころベートーヴェンに感動し、音楽家を志す。同時に劇作にも関心を持ち、のちに独自の芸術を生み出す原動力となる。10代から盛んにピアノ作品を作曲しており、初期ロマン派の語法の積極的な摂取が幼いながらも認められる。1830年10月、ベートーヴェンの『交響曲第9番』をピアノ独奏用に編曲し、マインツショット社に刊行を依頼するも断られてしまう。1831年の復活祭の折りにライプツィヒを訪れたベルンハルト・ショットに楽譜を手渡すとともに再度依頼するも、編曲版には不備も多く出版には至らなかった[3][* 2]。当初は絶対音楽の作曲家になろうと交響曲にも関心を示したが、すぐに放棄した。

1831年、18歳の時にライプツィヒ大学に入学。哲学や音楽を学んだが数年後に中退する。また、聖トーマス教会カントルトーマスカントル)だったテオドール・ヴァインリヒ対位法作曲の指導を受けた[4]

青年期

最初の妻ミンナ・プラーナー

1832年に『交響曲 ハ長調』(WWV 29)を完成させたと時を同じくして、最初のオペラ『婚礼』(WWV 31)を作曲した。1833年ヴュルツブルク市立歌劇場の合唱指揮者となった。その後指揮者に飽き足らず、オペラ作曲家を目指したが芽が出ず、貧困に苦しんだ。

青年ドイツ派のハインリヒ・ラウベと知り合い、1834年、最初の論文『ドイツのオペラ』を匿名でラウベが編集する流行界新聞に発表した[5]。この論文では歌唱美を持つイタリア音楽や、イタリアオペラの欠点を補ったグルックなどのフランス音楽に比して、ドイツ音楽は学識的(gelehrt)であり、民衆の声や真実の生活からかけ離れており、「ドイツなど世界のひとかけらにすぎない」と感じており、若いワーグナーは青年ドイツ派の影響を受けて、新しい音楽はイタリア的でもフランス的でもドイツ的でもないところから生まれると論じていた[6]

1834年マクデブルクのベートマン劇団の指揮者となった際、女優のミンナ・プラーナーと出会い、恋仲となる。

1836年に『恋愛禁制』(WWV 38)を作曲したがベートマン劇団が解散。ミンナがケーニヒスベルクの劇団と契約したため彼女についてケーニヒスベルクへ向かい、同地で結婚した[7]。しかし、二人の関係は不安定で、ワーグナーは独占欲が強く、他方のミンナは幾度も恋人と駆け落ちし、1837年5月にミンナは姿を消した[7]1837年にはドレスデン、さらに帝政ロシアリガ(現在のラトビア)と、劇場指揮者をしながら転々とした。ドレスデンでエドワード・ブルワー=リットンの小説『ローマ最後の護民官リエンツィ』を翻訳で読み、台本スケッチにした[8]。1839年3月、リガの劇場を解雇された[9]。7月、債権者から逃れたワーグナー夫妻はロンドンへ密航した[10]。この時に暴風に襲われ、『さまよえるオランダ人』(WWV 63)の原型となった[10]

パリ時代 (1839-1842)

ワーグナーを庇護したユダヤ人作曲家マイアベーア

1839年、ロンドンからドーバー海峡を渡り、船上で婦人からパリで成功したユダヤ人作曲家ジャコモ・マイアベーアへの紹介状を書いてもらった[11]。一時ブローニュ=シュル=メールでオペラ『リエンツィ』(WWV 49)を完成させた[11]

銀行家の息子だったマイアベーアはパリで1824年に『エジプトの十字軍』を成功させ、『悪魔のロベール』(1831年)、サン・バルテルミの虐殺に基づくグランド・オペラユグノー教徒』(1836年)の大ヒットなどで名声を博し、1842年にはベルリン宮廷歌劇場音楽監督に就任した。マイアベーアの『預言者』(1849年)では最初の10回の収入だけで10万フラン、さらに版権で44000フランを獲得したうえに、レジオンドヌール勲章、ザクセン騎士功労章、オーストリア・フランツ・ヨーゼフ騎士団騎士勲章、ヴュルテンベルク上級騎士修道会勲章、エルネスティン家一級指揮勲章、イエナ大学名誉博士号、ベルリン芸術アカデミー顧問などの名誉を獲得した[12]

1839年9月、マイアベーアはオペラ座支配人への推薦を引き受けてくれたため、ワーグナー夫妻は感激した[13]。しかし、10月には推薦が効き目なく、希望は幻滅へと変わり、マイアベーアへの邪推、そしてパリ楽壇、ユダヤ人を敵視するようになっていった[14]。この頃、ワーグナーは生活費の工面や『リエンツィ』や『さまよえるオランダ人』の上演の庇護をマイアベーアから受けていた[15]。ワーグナーもマイアベーアはグルック、ヘンデル、モーツァルトと同じくドイツ人であり、ドイツの遺産、感情の素朴さ、音楽上の新奇さに対する恥じらい、曇りのない良心を保持しており、フランスとドイツのオペラを美しく統一した作曲家であると称賛した[15][16]。また、マイアベーアは多くのユダヤ人がキリスト教に改宗する時代において、改宗を拒否した唯一の例であった[17]。一方でマイアベーアは聴衆のほとんどは反ユダヤ主義であるとハイネへの手紙で述べている[15]

マイアベーアの紹介で、ユダヤ人出版商人シュレザンジューから編曲や写譜の仕事を周旋してもらい、また雑誌への寄稿を求められて、小説『ベートーヴェン巡礼』を連載した[18]。パリではドイツ人ゴットフリート・アンデルス、ザームエル・レールス、画家キーツと親交を結び、プルードンフォイエルバッハの思想を知った[19]

1840年2月の手紙でワーグナーは、マイアベーアを民族の偏見をなくし、言語による境界を取り払う音楽として称賛している[12]

1840年の「ドイツの音楽について」でワーグナーは、ドイツ国はいくつもの王国や選帝侯国、公国、自由帝国都市に分断されており、国民が存在しないために音楽家も地域的なものにとどまっていると嘆いたうえで、しかしドイツはモーツァルトのように、外国のものを普遍的なものにつくりかえる才能があると論じた[16]。同年、反フランス的なドイツ愛国運動「ライン危機」がドイツで広がり愛国歌謡が作られたが、ワーグナーはこれを嫌悪した[20]。ライン危機とは、1840年にフランスのティエ−ル内閣がライン川を国境とすべきだとドイツに要求したことに対する反フランス的なドイツの愛国運動のことであり、「ドイツのライン」「ラインの守り」「ドイツの歌」などの愛国歌謡が作られたが、ワーグナーは共感しなかった[20]

偽名で発表したエッセイ「ドイツ人のパリ受難記」(1841)では「パリでドイツ人であることは総じてきわめて不快である」と書き、ドイツ人は社交界から排除されているのに対して、パリのユダヤ系ドイツ人はドイツ人の国民性を捨て去っており、銀行家はパリでは何でもできる、と書いた[16]。ワーグナーの身近にいたマイアベーアは事実、偽客(サクラ)を動員したり、ジャーナリストを買収するなどしており、ハイネもそうして獲得したマイアベーアの名声に対して「金に糸目をつけずにでっちあげた」と批判していた[16]1842年頃には、ワーグナーはシューマンへの手紙でマイアベーアを「計算ずくのペテン師」と呼ぶようになった[15]

この頃、ハイネから素材を採り『さまよえるオランダ人』(WWV 63)を作成した[21]。ワーグナーはハイネと親しく、ハイネがユダヤ系のルートヴィヒ・ベルネを『ベルネ覚書』で批判すると、ワーグナーはハイネを擁護した[21]

パリでワーグナーが認められることはなかった一方で、『リエンツィ』(WWV 49)は1841年6月に故郷であるザクセン王国・ドレスデンで完成したばかりのゼンパー・オーパー(ドレスデン国立歌劇場)での上演が決定し、1842年4月にワーグナーはパリで認められなかった失意のうちに、『リエンツィ』の初演に立ち会うためにザクセン王国ドレスデンへ戻った[15]

ザクセン宮廷指揮者

ドレスデンでの1842年10月20日の『リエンツィ』初演は大成功に終わり、これによってワーグナーはようやく注目された。『リエンツィ』は流行のマイアベーア様式を踏襲しており、ビューローは「『リエンツィ』はマイアベーアの最高傑作」と呼んだ[22]。この成功によって、ザクセン王国の宮廷楽団であるシュターツカペレ・ドレスデン(ザクセン国立歌劇場管弦楽団)の指揮者の職を打診され、翌年の1843年2月に任命された[15]。1月に『さまよえるオランダ人』が上演されたが、これは『リエンツィ』と違ってそれほどの評判を得られなかった。

1843年の「自伝スケッチ」でワーグナーは、イタリア人は「無節操」で、フランス人は「軽佻浮薄」であり、真面目で誠実なドイツ人と対比させたが、こうした評価にはパリでの不遇が背景にあった[15]

1844年12月には、1826年イギリスロンドン)で客死したウェーバーの遺骨をドレスデンへ移葬する式典の演出を担当した。ウェーバーを尊敬していたワーグナーは、『ウェーバーの「オイリアンテ」のモティーフによる葬送音楽』(WWV 73)とウェーバーを讃える合唱曲『ウェーバーの墓前にて』(WWV 72)を作詞作曲し、さらに追悼演説も行って、多才を発揮した。

当時のワーグナーは、ドレスデン宮廷歌劇場監督で社会主義者のアウグスト・レッケルの影響で、プルードン、フォイエルバッハバクーニンなどアナーキズムや社会主義に感化されており、国家を廃棄して自由協同社会(アソシエーション)を望んでいた[23]

1845年にはオペラ『タンホイザー』(WWV 70)を作曲し上演したが、当初は不評だった。しかし上演し続けるうちに評価は上昇していき、ドレスデンにかぎらず各地で上演されるようになった。夏休暇にはヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの『パルチヴァール』 、ゲオルク・ゴトフリート・ゲルヴィーヌスの『ドイツ人の詩的国民文学の歴史』 を読んだ[24]

1846年、ワーグナーは毎年恒例であった復活祭の直前の日曜日におこなわれる特別演奏会の演目として、ベートーヴェンの『交響曲第9番』の演奏を計画。当時、ベートーヴェンの第9番は演奏されることも少なく、忘れられた曲となっていたため猛反対の声が上がったが、徹底したリハーサルや準備の甲斐あってこの演奏は大成功に終わった。以後、『交響曲第9番』は名曲としての評価を確立する。1848年にオペラ『ローエングリン』(WWV 75)を作曲したが、この時は上演されなかった。

ワーグナーは1846年、ザクセン王立楽団の労働条件の改善や団員の増強や合理的な編成を要求したが、総監督リュッティヒャウ男爵はすべて却下した[23]。さらに翌1847年にワーグナーは宮廷演劇顧問のカール・グツコーの無理解な専制を上訴したが、取り合ってもらえなかったため、辞任した[23]

1847年夏、ワーグナーはヤーコプ・グリムの『ドイツ神話学』に触発され、古代ゲルマン神話を研究した[25]

1848年革命 (ドイツ三月革命)

1848年3月のドイツ三月革命ではフランスのような「国民」をドイツで実現することが目指され、レッケルがドレスデンで「祖国協会」を組織し、公職を追放された[23]。宮廷楽長ワーグナーはこの協会に加入していた[23]。ワーグナーは5月に宮廷劇場に代わる「国民劇場」を大臣に提案したが、劇場監督が反対したため却下された[23]。6月には祖国協会で、共和主義の目標は貴族政治を消し去ることであり、階級の撤廃と、すべての成人と女性にも参政権を与えるべきであるとして、プロイセンやオーストリアの君主制は崩壊すると、演説で述べた[26]。さらに、美しく自由な新ドイツ国を建設して、人類を解放すべきであると述べたが、この演説は、共和主義者と王党主義者からも攻撃された[26]。また、この演説では金権とユダヤ人からの解放について演説したともいわれる[21]。7月にはヘーゲルの歴史哲学に影響を受けて、「ヴィーベルンゲン、伝説に発した世界史」や「ジークフリートの死」の執筆をはじめた[26]

ワーグナーは、レッケルを通じてバクーニンと知り合い、1849年4月8日の「革命」論文では、革命は崇高な女神であり、人間は平等であるため、一人の人間が持つ支配権を粉砕すると主張した[26][* 3]

1849年5月のドレスデン蜂起でワーグナーもバリケードの前線で主導的な役割を果たした[26]。ワーグナーはドレスデンを脱出したが、指名手配を受けてスイスチューリッヒに亡命した[26]

亡命時代

1849年ドレスデンで起こったドイツ三月革命の革命運動に参加。当地に来ていたロシアの革命家のバクーニンと交流する。しかし運動は失敗したため全国で指名手配され、フランツ・リストを頼りスイスへ逃れ、チューリッヒで1858年までの9年間の亡命生活をおくり、この亡命中にも数々の作品を生み出す。

亡命先のチューリッヒでワーグナーは『芸術と革命』(1849年)を著作し、古代ギリシャ悲劇を理想としたが、アテネも利己的な方向に共同体精神が分裂したため衰退し、ローマ人は残忍な世界征服者で実際的な現実にだけ快感を覚え、またキリスト教は生命ある芸術を生み出すことはできなかったとキリスト教芸術のすべてを否定した[28]。一方、ローマ滅亡後のゲルマン諸民族はローマ教会への抵抗に終始したし、またルネサンスは産業となって堕落したとする[28]。さらに近代芸術は、その本質は産業であり、金儲けを倫理的目標としていると批判した上で、未来の芸術はあらゆる国民性を超越した自由な人類の精神を包含する、と論じた[28]。また、同年の『未来の芸術作品』では、共通の苦境を知っている民衆(Volk)と、真の苦境を感じずに利己主義的な「民衆の敵」とを対比させて、「人間を機械として使うために人間を殺している現代の産業」や国家を批判して、未来の芸術家は音楽家でなく民衆である、と論じた[28]

亡命先のスイスゲルマン神話への考察を深め、1849年には『ヴィーベルンゲン 伝説から導き出された世界史』で伝説は歴史よりも真実に近いとして、ドイツ民族の開祖は神の子であり、ジークフリートは他の民族からはキリストと呼ばれ、ジークフリートの力を受け継いだニーベルンゲンはすべての民族を代表して世界支配を要求する義務がある、とする神話について論じた[15][29][30]1848年革命の失敗によって、コスモポリタン的な愛国主義は、1850年代には排外的なものへと変容したが、ワーグナーも同時期にドイツ的なものを追求するようになっていった[30]

ローエングリン』はリストの手によってワイマール1850年に上演され、初演ではやや不評だったものの次第に評価を上げ、やがてワーグナーの代表作の一つとされるようになる。もっとも、亡命中のワーグナー自身はドイツ各地で上演される『ローエングリン』を鑑賞することができず、「ドイツ人で『ローエングリン』を聴いたことがないのは自分だけだ」と嘆いたという[31]。ワーグナーが『ローエングリン』を聴くのは実に11年後、1861年ウィーンにおいてである。

この時期、独自の「総合芸術論」に関する論文数編を書き、「楽劇」の理論を創り上げた。

ワーグナーはマイアベーアを1846年にも尊敬していたが、1849年6月に指名手配を受けたワーグナーはパリでのマイアベーア流行に対して資本主義的音楽産業の兆候とみえ、憎悪するようになった[12]。ワーグナーは友人テーオドーア・ウーリクとマイアベーアの『預言者』を観劇し、「純粋で、高貴で、高慢で、真正で、神的で人間的なものが、すでにそのように直接暖かく、至福の存在において息づいている」と称賛しているが、これは嘲笑ともされ、この時期にワーグナーは「内心軽蔑していたパトロンたちにさえ、馬鹿にされていたのが実は我々だった」とリストに述べている[12]

1850年、ワーグナーが変名で『音楽におけるユダヤ性』を「新音楽時報」に発表し、ユダヤ人は模倣しているだけで芸術を作り出せないし、芸術はユダヤ人によって嗜好品へと堕落したと主張した[21][32]。また、「ユダヤ人は現に支配しているし、金が権力である限り、いつまでも支配し続けるだろう」とも述べた[21]。ワーグナーは1850年以前はユダヤ人の完全解放を目指す運動に与していた[15]。ワーグナーは『音楽におけるユダヤ性』で、マイアベーアを名指しでは攻撃せずに、ユダヤ系作曲家メンデルスゾーン・バルトルディを攻撃し、またユダヤ解放運動は抽象的な思想に動かされてのもので、それは自由主義が民衆の自由を唱えながら民衆と接することを嫌うようなものであり、ユダヤ化された現代芸術の「ユダヤ主義の重圧からの解放」が急務であると論じた[15]。ワーグナーによれば、メンデルスゾーンは最も特殊な才能に恵まれ、繊細かつ多様な教養を有しているが、心を魂をわしづかみにするような作用をもたらさないとし、またバイロイト時代には才能を持っているが力を伸ばすにつれて愚かになっていく猿と評した[33]。ただし、ワーグナーはメンデルスゾーンの『ヘブリディーズ諸島(フィンガルの洞窟)』序曲(1830年)を称賛し、崇高であるとも評価し、1871年には自分が移調ができないことに対してメンデルスゾーンならば手を叩いて喜んだだろうとも述べており、さらにメンデルスゾーン本人よりも、メンデルスゾーン一派が台頭させて、価値を創造せずにただ商品を流通させているだけの「音楽銀行家」を批判した[33]。また、1843年の「パウロ」ドレスデン初演をワーグナーは激賞し、メンデルスゾーンも「さまよえるオランダ人」ベルリン初演を称賛した[33]。メンデルスゾーンは1847年に死去しており、『音楽におけるユダヤ性』はその三年後に発表された[33]。 『音楽におけるユダヤ性』を発表して以降、ワーグナーはマイアベーアの陰謀で法外な非難を受けたと述べ、1851年にワーグナーはリストに向けて、以前からユダヤ経済を憎んでいたと述べ[21]1853年にはユダヤ人への罵詈雑言をリストの前で述べるようになっていた[15]

カール・タウジヒ

他方で、ワーグナーはユダヤ人奏者を庇護したり、起用することも行った[34]。例えば、『音楽におけるユダヤ性』には一点の疑義もなく、自殺するかワーグナーに師事するかしかないと述べたウクライナのユダヤ人ピアノ奏者ヨーゼフ・ルービンシュタインをワーグナーは庇護し、専属奏者とし[34]、さらにバイロイト新聞への寄稿を求めた[35]。同じくカール・タウジヒもユダヤ人でワーグナーの庇護下にあったし、ワーグナーがローエングリンジークフリート役に好んで起用した歌手で後にプラハ新ドイツ劇場監督になるアンゲロ・ノイマンもユダヤ人であった[34]

1851年には超大作『ニーベルングの指環』(WWV 86)を書き始める。また1859年には『トリスタンとイゾルデ』(WWV 90)を完成させた。

1851年の『オペラとドラマ』でワーグナーは、古代ギリシャ人の芸術を再生できるのはドイツ人であると論じ、また死滅したラテン語にむすびついたイタリア語やフランス語とは違って、ドイツ語は「言語の根」とむすびついており、ドイツ語だけが完璧な劇作品を成就できる、と論じた[36]。1851年12月にフランスでナポレオン3世のクーデターが起きると、ワーグナーは革命を期待したが、翌年末にフランス帝政が宣言されると、落胆して、ドイツへの帰国を考えるようになった[37]

1855年、ワーグナーの知り合いでもあった自由主義者の作家フライタークの小説「借方と貸方」では、ドイツ人商人が浪費癖の強いドイツ人貴族を助けて、ドイツへの憎しみに燃えるユダヤ人商人は没落し最後には汚い川で溺死するという話で、ドイツの長編小説の中で最も読まれたといわれ影響力があった[38][39]

1860年1月25日、パリでワーグナー作品演奏会が実施され、エクトル・ベルリオーズ、マイアベーア、ダニエル=フランソワ=エスプリ・オベールシャルル・グノーが来場し、さらにワーグナーが開いた水曜会にはカミーユ・サン=サーンスとグノーが常連となり、またワーグナーは詩人のシャルル・ボードレールを招待した[40]

1861年にはワーグナーが実名で『音楽におけるユダヤ性の解説』を刊行した。

この時期には数人の女性と交際していた。特にチューリヒで援助を受けていた豪商ヴェーゼンドンクの妻マティルデと恋に落ち、ミンナとは別居した。この不倫の恋は『トリスタンとイゾルデ』のきっかけとなり、またマティルデの詩をもとに歌曲集『ヴェーゼンドンクの5つの詩』を作曲した。しかしこの不倫は実らず、チューリヒにいられなくなったワーグナーは以後1年余りヴェネツィアルツェルン、パリと転々とした。1860年にはザクセン以外のドイツ諸邦への入国が許可された。1862年には『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の作曲にとりかかった。この年、恩赦によってザクセン入国も可能になり、ワーグナーは法的には亡命者でなくなった。そのため別居してドレスデンに住んでいた妻ミンナと再会できたが、この再会以後二人が会うことはなかった。またこのころ、ウィーン音楽院の教壇にも立っている。

ルートヴィヒ2世の招き

バイロイト祝祭劇場のコジマの胸像

ザクセンでの追放令が取り消し後の1864年、ワーグナーに心酔していたバイエルン国王ルートヴィヒ2世から突然招待を受ける。しかしそれを非難した宮廷勢力や、噂となっていたリストの娘で指揮者ハンス・フォン・ビューローの妻だったコジマとの仲を王も快く思わなかった。翌年スイスへ退避し、ルツェルン郊外トリープシェンの邸宅に住んだ。

コジマは少女時代からワーグナーの才能に感銘を受けていたが、ワーグナーの支持者であったビューローと結婚し、2人の子を儲けていた。ところがこのころワーグナーと深い仲となり、ついにワーグナーの娘イゾルデを産む(2人とも離婚していない)。1866年ワーグナーの正妻ミンナが病死。1870年コジマはビューローと離婚してワーグナーと再婚した。そしてビューローはワーグナーと決別し、当時ワーグナー派と敵対していたブラームス派に加わった。

1865年、ワーグナーはバイエルン国王ルートヴィヒ2世のために『パルジファル』を書き、「ゲルマン=キリスト教世界の神聖なる舞台作品」と呼んだ[34]。同1865年9月11日の日記では「私はもっともドイツ的な人間であり、ドイツ精神である」と書いた[41]。ワーグナーは『パルジファル』にあたって、大ドイツ主義者の聖書学者グフレーラーの『原始キリスト教』に影響を受けた[42]

1867年にワーグナーは、フランス文明は退廃的な物質主義であり、優美を礼儀作法に変形させ、すべてを均一化させ死に至らしめるものであり、この物質的文明から逃れることができるのがドイツであり、古代末期ローマ帝国を滅ぼして新生ヨーロッパを作ったゲルマン民族と同じ国民である、と論じた[* 4]

1867年には『ニュルンベルクのマイスタージンガー』(WWV 96)が完成し、1868年6月21日にはビューローの指揮によってミュンヘン宮廷歌劇場で初演された。『ニュルンベルクのマイスタージンガー』では「たとえ神聖ローマ帝国は雲散霧消しても、最後にこの手に神聖なドイツの芸術が残る」(3幕5場)と述べられた[44]。しかし、この作中でユダヤ人は出てこない[32]

1869年北ドイツ連邦で宗教同権法(宗教の違いに関係ないドイツ市民同権法)が承認され、1871年ドイツ帝国全域で施行されると、反ユダヤ主義運動が高まりを見せたが、ワーグナーは同時代の反ユダヤ主義には同調しなかった[45]。他方でユダヤ人資本家、宮廷ユダヤ人によって操られているプロイセン政府を軽率な国家権力として批判した[46]。またワーグナーはヴィルヘルム・マルやオイゲン・デューリングの反ユダヤ主義は評価しなかったが、ユダヤ人の儀式殺人をとりあげたプラハ大学教授のアウグスト・ローリング神父の『タルムードのユダヤ人』(1871年)[47] を愛読した[48]

現在でもオペラ以外の作品としては頻繁に演奏されている管弦楽曲『ジークフリート牧歌』(WWV 103)は、コジマと子供たちのために密かに作曲し、1870年のコジマの誕生日に演奏したものである。

1870年普仏戦争の開始に、ワーグナーは著書『ベートーヴェン』で、フランス近代芸術は独創性を完全に欠如させているが、芸術を売りさばくことで計り知れない利潤をあげているが、ベートーヴェンがフランス的な流行(モード)の支配から音楽を解放したように、ドイツ音楽の精神は人類を解放する、と論じた[49]

バイロイト祝祭劇場の建設

バイロイト祝祭劇場

1872年バイロイトへ移住し、ルートヴィヒ2世の援助を受けて、長く夢見ていた自身の作品のためのバイロイト祝祭劇場の建築を始める。1874年に『ニーベルングの指環』が完成。劇場は1876年に完成し、『指環』が華々しく上演された。が、自身が演出したこの初演にはワーグナーはひどく失望し、再度の上演を強く望んだが、主に多額の負債のため、生前には果たせなかった。

1873年にはビスマルクの反カトリック政策である文化闘争を支持し、さらにカトリックだけではなく、横暴なフランス精神との闘争を主張した[50]。しかし、ビスマルクがワーグナーの劇場計画や支援要請を拒否すると、ワーグナーはビスマルクとプロイセンに失望し、今日のドイツの軍事的優位は一時的なものにすぎず、「アメリカ合衆国とロシアこそが未来である」と妻に述べ、1874年に「私はドイツ精神なるものに何の希望も持っていない」とアメリカの雑誌記者デクスター・スミスへの手紙で述べた[50]1877年にはバイロイトを売却して、アメリカ合衆国に移住する計画をフォイステルに述べた[50]

ワーグナーは1880年の論文「宗教と芸術」で、音楽は世界に救いをもたらす宗教であると論じて、キリスト教からユダヤ教的な混雑物を慎重に取り除き、崇高な宗教であるインドのバラモン教や仏教などを参照して、純粋なキリスト教を復元しなくてはならないとし、失われた楽園を再発見するのは、菜食主義と動物愛護、節酒にあるとし、南米大陸への民族移動を提案した[45]。この論文では、「ドイツ」は一語も登場しない[45]。ワーグナーに影響を与えたショーペンハウアーは、キリスト教の誤謬は自然に逆らって動物と人間を分離したことにあるが、これは動物を人間が利用するための被造物とみなしたユダヤ教的見解に依拠する、と論じた[45]。ワーグナーの菜食主義は、ヒトラーの菜食主義にも影響を与えた[51]。また、ワーグナーは動物実験の禁止を主張した[48]。また、1880年には哲学者ニーチェの妹エリーザベトの夫ベルンハルト・フェルスターによって、ユダヤ人の公職追放や入国禁止を訴えるベルリン運動(Berliner Bewegung)が展開され、26万5千人の署名が集まった[21]。しかし、ワーグナーはベルリン運動への署名は拒否した[45]

晩年の1881年2月の論文「汝自身を知れ」において、ワーグナーは現在の反ユダヤ運動は俗受けのする粗雑な調子にあると批判し、ドイツ人は古代ギリシア格言汝自身を知れ」を貫徹すれば、ユダヤ人問題は解決できると論じた[45]。ワーグナーの目標はユダヤ人を経済から現実に排斥することでなく、現代文明におけるユダヤ性(Judenthum)全般を批判し、フランスの流行や文化産業と一体化したものとして批判した[45]。ワーグナーにとって、ユダヤ人は「人類の退廃の化身であるデーモン」であり「われわれの時代の不毛性」であり、ユダヤへの批判はキリスト教徒に課せられた自己反省を意味し、またユダヤ教は現世の生活にのみ関わる信仰であり、現世と時間を超越した宗教ではないとした[45]

1881年9月の論文「英雄精神とキリスト教」では、人類の救済者は純血を保った人種から現れるし、ドイツ人は中世以来そうした種族であったが、ポーランドやハンガリーからのユダヤ人の侵入によって衰退させられたとして、ドイツの宮廷ユダヤ人によってドイツ人の誇りが担保に入れられて、慢心や貪欲と交換されてしまったとワーグナーは論じた[52]。ユダヤ人は祖国も母語も持たず、混血してもユダヤ人種の絶対的特異性が損なわれることがなく、「これまで世界史に現れた最も驚くべき種族保存の実例」であるに対して、純血人種のドイツ人は不利な立場にあるとされた[52]。なお、ワーグナーはユダヤ系の養父ルートヴィヒ・ガイアーが自分の実の父親であるかもしれないという疑惑を持っていた[52]

1881年、ワーグナーはバイエルン国王ルートヴィヒ2世への手紙でユダヤ人種は「人類ならびになべて高貴なるものに対する生来の敵」であり、ドイツ人がユダヤ人によって滅ぼされるのは確実であると述べている[34]。しかし、同じ年に、ユダヤ人歌手アンゲロ・ノイマンが反ユダヤ主義者に攻撃を受けると、ノイマンを擁護してもいる[34]

1882年、ウィーンのリング劇場800人[要出典]が犠牲となった火災事故に対してワーグナーは「人間が集団で滅びるとは、その人間たちが嘆くに値しないほどの悪人だったということだ。あんな劇場に人間の屑ばかり集めて一体何の意味があるというのか」と述べ、鉱山で労働者が犠牲になった時こそ胸を痛めると述べた[34][* 5]。また、ワーグナーは「人類が滅びること自体はそれほど惜しむべきことではない。ただ、人類がユダヤ人によって滅ぶことだけはどうしても受け入れがたい恥辱である」と述べている[34]

1882年、舞台神聖祝典劇『パルジファル』(WWV 111)を完成。最後の作品となった本作は、バイロイト祝祭劇場の特殊な音響への配慮が顕著で、作品の性格と合わせて、ワーグナーはバイロイト以外での上演を禁じた。このころ祝祭劇場と彼の楽劇はヨーロッパの知識人の間で一番の関心の的になる。

ヘルマン・レーヴィ

1882年夏、ワーグナーの崇拝者であったユダヤ人指揮者ヘルマン・レーヴィはルートヴィヒ2世の命によって、『パルジファル』のバイロイト祝祭劇場初演を指揮した[34][52]。『パルジファル』でワーグナーはインドの仏教やラーマーヤナをモチーフにしたが、「キリスト教世界の外部」の中世スペインとして設定された[45]。宗教と芸術の一致を目標としていたワーグナーは、ユダヤ人のレーヴィをキリスト教に改宗せずに指揮してはならないと言ったが、レーヴィは拒否した[52]。レーヴィはワーグナーの論文「汝自身を知れ」に感銘し、ワーグナーのユダヤとの戦いは崇高な動機からのものであり、低俗なユダヤ人憎悪とは無縁であると考えた[52]。前年の1881年6月には匿名でユダヤ人に指揮させないでほしいという懇願とともに、そのユダヤ人はワーグナーの妻コジマと不義の関係にあるとする手紙がワーグナーのもとに届いた[34]。ワーグナーが手紙をレヴィに見せると、レーヴィは指揮の辞退を申し出たが、ワーグナーは指揮をするよう言った[34]。ワーグナーの娘婿でイギリス人反ユダヤ主義者チェンバレンは終生ワーグナーに忠実であったレーヴィを例外的ユダヤ人として称賛した[34]

死去

バイロイトのヴァーンフリート荘と、裏庭にあるワーグナーとコジマの墓

1883年2月13日ヴェネツィアにて旅行中、客死。作品でも私生活でも女性による救済を求め続けたワーグナーらしく、最後に書いていた論文は『人間における女性的なるものについて』であり、その執筆中に以前から患っていた心臓発作が起きての死だった。ワーグナーは死ぬ直前に「われわれはすべてをユダヤ人から借り出し、荷鞍を乗せて歩くロバのような存在である」とも述べた[34]。コジマはベッドに横たえられたワーグナーの遺体を抱きかかえて座り、一日中身動きひとつとしなかったという[54]。遺体はバイロイトの自宅であるヴァーンフリート荘の裏庭に埋葬された。

ワーグナーの死はヨーロッパ中に衝撃を与えた。ルートヴィヒ2世はワーグナーの死を知って「恐ろしいことだ」と打ち震えた。訃報を接した際に合唱の練習をしていたブラームスは、ワーグナーに弔意を表して練習を打ち切ったという[55]。離反していたニーチェも悔みの手紙を送り、ワーグナーを痛烈に批判しブラームスを支持したエドゥアルト・ハンスリックもワーグナーの死を悼んだ[56]アントン・ブルックナー交響曲第7番の第2楽章は、彼の死の予感の中で書かれ、そのコーダは彼の死に捧げる葬送音楽となっていることはよく知られている。

またヴェルディはこう書いている。

私は昨日その訃報を読んだとき、あまりの驚きに立ちすくんだまま、しばらくはものも言えずにいました。我々は偉大な人物を失ったのです!彼の名前は芸術の歴史にもっとも巨大な存在として残ることでしょう! — ジュゼッペ・ヴェルディ、1883年2月14日付のミラノの楽譜出版社に宛てた手紙[57]

注釈

  1. ^ 日本語ではワーグナーワグナーと書かれることが圧倒的に多いが、専門書などではドイツ語発音の[va:gnɐ]英語発音の[vɑːgnə](英)/[vɑːgnɚ](米)に近いヴァーグナーヴァグナーとも表記される。日本語ではかつて、語尾の「-er」を母音化させない古典的な舞台ドイツ語の発音[va:gnər]をもとにしてワグネルヴァーグネルとも表記された。フランス語では同言語の発音通則から外れて[vagnɛːr]ヴァグネール)と読む。
  2. ^ 1989年出版のワーグナー全集版が1998年に小川典子のピアノによって世界初録音(BIS CD950)となった。日本盤には複数の著作で『第九』を採り上げた金子建志の解説が付属。演奏の困難さだけでなく、声楽パートに相当する音が欠けている特徴、第一楽章コーダの欠落などが言及されている。
  3. ^ ただし、この文書の作者がワーグナーであることは証明されていない[27]
  4. ^ 南ドイツ新報に連載した「ドイツ芸術とドイツ政治」[43]
  5. ^ ポリアコフはカール・フリードリヒ・グラーゼナップ『リヒャルト・ワーグナーの生涯』(全6巻、1894-1911)の6巻、p.551.を典拠としている[53]

出典

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  2. ^ 「作曲家 人と作品 ワーグナー」p16 吉田真 音楽之友社 2005年1月5日第1刷発行
  3. ^ サントリー音楽文化展 '92「ワーグナー」カタログ p17 三宅幸夫 サントリー文化事業部
  4. ^ #高辻1986,p33-4.
  5. ^ #高辻1986,p36.
  6. ^ #吉田 2009,p.46-49.
  7. ^ a b #高辻1986,p42.
  8. ^ #高辻1986,p45.
  9. ^ #高辻1986,p46.
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  67. ^ テルアビブ発 〓 ワーグナーの音楽を放送したラジオ局が謝罪”. 月刊音楽祭 (2018年9月4日). 2021年9月2日閲覧。
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  72. ^ Eleonore BÜNING: 200 Jahre Richard Wagner. Das unwiderstehliche Böse, in: FAZ (2013)
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