リヒャルト・ミュラーとは? わかりやすく解説

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リヒャルト・ミュラー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/04 02:03 UTC 版)

リヒャルト・ミュラー
Richard Müller
アトリエで弟子やヌードモデルといるリヒャルト・ミュラー
生誕 (1874-07-28) 1874年7月28日
ツィルニッツ
死没 1954年5月7日(1954-05-07)(79歳)
ドレスデン

リヒャルト・ミュラーRichard Müller1874年 - 1954年)は、ドイツ版画家画家。 裸体と動物(骨や死体を含む)をモチーフとした写実的なタッチの幻想的な銅版画油彩画が特徴。

生涯

1874年、北ボヘミアのツィルニッツ(旧チェコスロバキア、現チェコ共和国のチェルノヴィツェ・ナド・オラ)で 織工の息子として生まれる[1][2]。 幼少期より、父親たち織工が共同出資して定期購読していた雑誌『園亭』に掲載されていた写真やコルネリウス・ホイベルツやモーリッツ・フォン・シュヴィントの銅版画を模写していたという[3]

1888年、マイセンの王立ザクセン陶芸学校に入学[4][2]

1890年、16歳の若さでドレスデンの王立美術アカデミーに入学[2]。 アカデミー終了後にはドレスデンの動物園と無料老人ホームに日参し、素描の訓練を続ける[5]

1894年、ドレスデン分離派(ゼツェシオン)展に出品[2]

1895年、版画家で彫刻家のマックス・クリンガーに師事し、エッチングの習得を勧められる[2]

1897年、銅版画でローマ大賞を受賞。6000金マルクを受ける[2]

1898年、油彩画で「大金メダル」を授与される[6]

1900年、26歳でドレスデン視覚芸術大学(ドレスデン美術大学)の教授に就任、以降35年にわたり教職を務める。1933年から1935年にかけては同校の学長を勤めた。その間、エドムント・ケスティングオットー・ディクスジョージ・グロスらを指導した[2]

1933年、進んでナチス党員となり、ナチスの意を受けた「退廃美術展」を組織。 これに際してエドヴァルド・ムンクオスカー・ココシュカエミール・ノルデマルク・シャガールなどの作品を押収。 その中には自らの教え子であるグロス、ディクスの作品も含まれていた [7]

1984年、ドレスデンで死亡[2]

画集

  • 『Das Werk von Richard Mller』(1921年)ドレスデン刊

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 幻想と怪奇』創刊号:魔女特集(歳月社)P89
  2. ^ a b c d e f g h 『みづゑ』No.842 1975年5月号(美術出版社)P21
  3. ^ 『みづゑ』No.842 1975年5月号(美術出版社)P89
  4. ^ 幻想と怪奇』創刊号:魔女特集(歳月社)
  5. ^ 幻想と怪奇』創刊号:魔女特集(歳月社)P90
  6. ^ 『みづゑ』No.842 1975年5月号(美術出版社)P26
  7. ^ 『みづゑ』No.842 1975年5月号(美術出版社)P28

参考文献

  • 『みづゑ』No.842 1975年5月号:特集:本=アートワーク(美術出版社、解説・種村季弘
  • 幻想と怪奇』創刊号:魔女特集(歳月社) 1973年4月
    Fantasic Gallery:リヒアルト・ミューラーの世界 (解説・麻原雄)



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