スター千一夜 主なゲスト

スター千一夜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/20 12:34 UTC 版)

主なゲスト

ほか多数

歴代高視聴率ゲスト

ビデオリサーチ

ビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯による歴代高視聴率ゲストは以下の通り。

# 放送日 放送時間 視聴率 ゲスト
1. 1966年12月1日(木) 21:30 - 21:45 45.9% 王貞治・王恭子夫妻
2. 1963年2月7日(木) 21:30 - 21:45 38.1% 栃光正之夫妻
3. 1971年3月24日(水) 19:45 - 20:00 37.9% 石坂浩二浅丘ルリ子夫妻
4. 1967年5月30日(火) 21:30 - 21:45 36.9% 大鵬幸喜・納谷芳子夫妻
5. 1965年1月26日(火) 21:30 - 21:45 34.8% 長嶋茂雄長嶋亜希子夫妻
6. 1964年3月6日(金) 21:30 - 21:45 34.4% 高倉健江利チエミ夫妻
7. 1968年3月27日(水) 21:30 - 21:45 33.7% デビ夫人とサリーちゃん
8. 1980年11月19日(水) 19:45 - 20:00 30.3% 三浦友和山口百恵夫妻
9. 1970年9月12日(土) 19:45 - 20:00 30.0% 加山雄三松本めぐみ夫妻

出典[3][4]

ニールセン

ニールセン調べ、関東地区・世帯による歴代高視聴率ゲストは以下の通り。

# 放送日 放送時間 視聴率 ゲスト
1. 1966年12月1日(木) 21:30 - 21:45 45.4% 王貞治・王恭子夫妻
2. 1963年2月16日(土) 21:30 - 21:45 40.0% 高倉健江利チエミ夫妻
3. 1971年3月24日(水) 19:45 - 20:00 39.5% 石坂浩二浅丘ルリ子夫妻
4. 1963年3月2日(土) 21:30 - 21:45 37.8% 勝新太郎中村玉緒夫妻
5. 1964年11月27日(金) 21:30 - 21:45 37.0% 長嶋茂雄長嶋亜希子夫妻
6. 1962年11月5日(月) 21:30 - 21:45 36.6% 美空ひばり小林旭夫妻
6. 1967年3月23日(木) 21:30 - 21:45 36.6% 舟木一夫
8. 1963年2月23日(土) 21:30 - 21:45 35.9% 三木のり平一家
9. 1962年10月20日(土) 21:30 - 21:45 35.8% 渡辺美佐クレージーキャッツ
10. 1963年3月14日(木) 21:30 - 21:45 35.5% 橋幸夫

出典[5]

旭化成 宣伝40年の歩み

「旭化成 宣伝40年の歩み」による、関東地区・世帯による歴代高視聴率ゲストは以下の通り。

# 放送日 放送時間 視聴率 ゲスト
1. 1966年12月1日(木) 21:30 - 21:45 45.9% 王貞治・王恭子夫妻
2. 1960年4月6日(水) 21:30 - 21:45 41.5% 島津貴子島津久子島津久永
3. 1963年2月16日(土) 21:30 - 21:45 40.0% 高倉健江利チエミ夫妻
4. 1971年3月24日(水) 19:45 - 20:00 37.9% 石坂浩二浅丘ルリ子夫妻
5. 1963年3月2日(土) 21:30 - 21:45 37.8% 勝新太郎中村玉緒夫妻
6. 1964年11月27日(金) 21:30 - 21:45 37.0% 長嶋茂雄長嶋亜希子夫妻
7. 1967年5月30日(火) 21:30 - 21:45 36.9% 大鵬幸喜・芳子夫妻
8. 1962年11月5日(月) 21:30 - 21:45 36.6% 美空ひばり小林旭夫妻
9. 1963年2月23日(土) 21:30 - 21:45 35.9% 三木のり平一家
10. 1962年10月20日(土) 21:30 - 21:45 35.8% 渡辺美佐クレージーキャッツ

出典[6]

番組終了とその後

フジテレビが副社長であった鹿内春雄(当時)主導の下で活性化の為に、柔軟で大規模な番組編成改革を行う方針となった事と、『クイズグランプリ』が1980年12月に終了してからワンセットとなる平日15分帯番組枠が時代に沿わなくなり、視聴率も下降の一途を辿った上編成上の問題点も出て来た事が、1981年秋の終了に繋がった。最終回に「惜しまれつつ終了」という形式をとった理由は、開局当日以来放送されていたからである[7][8]。番組終了は1981年1月の時点で公表されており[8]、早ければ4月改編で終了する事も考えられていたが、夜19:30枠の新番組を多く立ち上げるのに時間がかかるという理由で終了時期が10月改編時に延ばされた[8]。番組終了に関しては旭化成の宮崎輝社長が廃止を承知せずに紆余曲折したものの[9]、『なるほど!ザ・ワールド』への移行でようやく了解を得たことが、結果的に番組編成改革の成功に繋がっている。

1981年8月下旬より『スター千一夜』ファイナルと題し「60年代」「70年代」「80年代」「スポンサー」とテーマを決めて今まで放送してきたハイライトシーンが放送された。

1981年9月18日のスポンサー特集では「愛を育てる旭化成」企業CMなど普段見る事の出来ない貴重なCM映像も紹介した。

最終回は1981年9月25日に『さよなら!スター千一夜』というタイトルで、19:30からの拡大版で放送(当時19:30開始の『逆転クイズジャック』は前日の9月24日で終了)。放送では過去本番組に出演した芸能人が多数出演し、その席上、森繁久彌[注 3]が自作の詩を朗読して番組終了を惜しんだ。

放送回数6417回、放送期間22年7か月は、1982年10月開始で2014年3月まで31年半続いた『森田一義アワー 笑っていいとも!』によって2005年5月に更新されるまで、フジテレビの帯番組では長寿記録であった。その後、1991年に期首特番で2時間番組として復活した事もある。出演はレギュラーを務めていた露木茂、ビートたけし。

2008年11月16日には、フジテレビ721において、吉永小百合傑作選として、選りすぐりの2本が再放送された。

保存されている映像は少なく、現存する映像は1970年代後半以降のものが大半である。番組開始当時はVTRが無く生放送で、納入後もVTR規格が2インチで機器・テープ共に高価だった。また、放送時間も15分と短く、加えて著作権法などの絡みで番組の資料保存が制約されていた事情もあった。

  • 例として、1996年8月8日放送の『フジテレビの日888まつり〜祭りだワッショイ〜』において、本番組が紹介された際、露木が明石家さんまについて、「さんまさんが『スター千一夜』に出演していた時のVTRが保存されておりません。取りあえず辛うじて写真だけが残っていました。」と紹介し、さんまも「保存せぇーよ!」とぼやいていた。なお、さんまが出演したのは、漫才ブームの真っ只中にあった1981年9月。ツービートB&Bザ・ぼんちらが日替わりで出演した『スタ千』最終週の前週のこと。さんまは「『スタ千』には滑り込みで間に合った」という感激を、2009年2月28日放送の『バラエティルーツの旅 あなたがいたから僕がいる 半世紀大感謝祭』や、その他の番組でも幾度となく語っている。

当番組はテレビ創成期から時事の話題を聞く、現代におけるワイドショーの元祖とされているが、台本がある様な話題や明るい事ばかり触れるという内容は、時の流れと共に「ご都合主義」と見られ、番組終了と共にトークサロン型ワイドショーは一気に衰退し、ワイドショーは有名人のゴシップ、スキャンダル、不幸な事件を中心とした現在の形式に取って代わられる事になる。この為、現在この様な体勢を取っているトーク番組は『徹子の部屋』程度となっている。なお、同番組の司会者である黒柳徹子も1度だけ本番組にゲスト出演した。

特別版

番組終了後の1990年1991年2010年2013年2015年の5度に渡り復刻版が放送された。いずれもタイトルロゴは、19時台放送時代の物が使用された。

1990年・1991年版

1990年10月2日、1991年4月2日に通常は『なるほど!ザ・ワールド』が放送されていた火曜21時台の時間帯にて『特別企画 スター千一夜スペシャル』と題し(1991年版は末尾に2が追加された)9年ぶりに復活し、1度目の司会は石坂浩二が、2度目は番組末期に司会を担当経験していたビートたけしが務めた。こちらでは従来のゲストを迎えるトークに加え、現存しているVTRを紹介する形を取った。通常の『なるほど-』同様にこちらも旭化成が一社提供をしていた。

三谷版

2010年から、不定期で企画・構成・司会を三谷幸喜(本番組の司会の一人である往年の石坂浩二風に扮装)が務める『スター千一夜』が放送されている。ただしいわゆるトーク番組とは異なり、三谷の不可解なムチャ振りの質問(テロップによれば「司会者の誤った知識」)に出演者が(「広い心で」)無理矢理答えなければいけない、という内容のものになっている。

2010年版

2010年4月6日から9日までの未明(5日から8日までの深夜)、開局50周年記念ドラマ『わが家の歴史』(4月9日〜4月11日放送)の宣伝も兼ねて、本放送から28年半ぶりに『スター千一夜2010 わが家の歴史』として深夜枠で復活。出演者は『わが家の歴史』の出演者が登場。この時も旭化成が30秒ではあるがスポンサーに付いていた。

放送日 ゲスト
2010年4月6日 長澤まさみ榮倉奈々堀北真希
2010年4月7日 加藤清史郎
2010年4月8日 佐藤浩市松本潤)、佐藤隆太
2010年4月9日 柴咲コウ

なお、こちらの特別番組に行う際にメディアが報じた情報では、「29年ぶりの復活」と紹介され、1990年・1991年版が触れられなかった。

2013年版

2013年11月5日から8日までの未明(4日から7日までの深夜)は、三谷が原作・脚本・監督を務める映画『清須会議』(11月9日公開)の宣伝も兼ねて、3年半ぶりに『スター千一夜2013 三谷会議』として深夜枠で復活。出演者は『清須会議』の出演者が登場。

2015年版

2015年1月6日から10日までの未明(5日から9日までの深夜)の5日間に亘り、1月11日12日に2夜連続放送の開局55周年記念スペシャルドラマ『オリエント急行殺人事件』の宣伝も兼ねて、1年ぶりに『スター千一夜2015 オリエント急行殺人事件スター集合!』と銘打って、深夜枠で復活。三谷は「石狩 平次(いしかり へいじ)」の設定名で出演。出演者は同ドラマの出演者が登場。

同年10月には『スター千一夜2015』と題して、10月12日から10月24日までの未明(17日から19日までの未明を除く。11日から23日までの深夜〈16日から18日までの深夜を除く〉)に放送。10月12日から16日までは、フジテレビの2015年10月-12月期の連続テレビドラマからゲストを迎え、20日から24日は、三谷が原作・脚本・監督を務める映画『ギャラクシー街道』(10月24日公開)の宣伝も兼ねて、『「ギャラクシー街道」公開記念!スター千一夜2015』と銘打って、同映画の出演者からゲストを迎えていた[10]


注釈

  1. ^ 最後にモノクロで放送されたものは1970年3月23日(#3410)、大相撲春場所優勝者大鵬幸喜と大阪万博各国パビリオンホステスがゲストの回。
  2. ^ 関口が初めて司会を務めた際、前田武彦がゲストとして招かれたが、放送直前になってよど号ハイジャック事件の人質帰国のニュースが入ったため、その模様を報じることになったものの、当時関口にはこのような報道を扱ったことがなかったため、前田が関口に代わって番組を仕切ることとなった。
  3. ^ 森繁久彌は、この半年強後の1982年3月31日に最終回を迎えた『小川宏ショー』でも、司会・小川宏を称える役でラストに出演、当時のフジテレビ2大長寿番組の最終回に出演となった。
  4. ^ 1959年3月6日付朝日新聞夕刊に掲載されている旭化成工業の広告によると、全曜日をネットしていた局は一つもない。
  5. ^ 放送当時はフジテレビ系列。
  6. ^ 放送当時は日本テレビ系列。1971年10月の福島中央テレビとのネット交換ではTBSメインの編成となったため、福島中央テレビからの再移行は行われなかった。
  7. ^ 放送当時はフジテレビ系列とNET系列のクロスネット。
  8. ^ 開局から1981年3月まで同時ネット。1981年4月から番組終了までの半年は、1週間遅れの14時45分から放送。
  9. ^ 開局前の試験放送期間中も、ほとんどの日に当番組を放送した。
  10. ^ ただし、開局前のサービス放送期間中は帯放送されていた。
  11. ^ ディフォルメ化された小柄な青年が歩いていると、頭上の鳥が卵を産み落とし、卵が大きくなってエミューの様な鳥が産まれ、毛玉風になってジャンプ、地平線が糸に変わると男はその糸を丸めて(この時画面右下に提供クレジット)投げてタイトルが登場するといった内容。その後タイトルに星が当たって星空に変わると、今日の放送内容が映される。またこのテーマは、2010年以降の復活版でも使用された。

出典

  1. ^ 機関誌バックナンバー 日本タンゴ・アカデミー (2011年 秋) ※2011年 tangolandia-23 → 12ページ (PDF) 2021年3月1日閲覧。
  2. ^ 「家庭婦人の見たテレビ評」『視聴覚教育』第16巻第9号、日本映画教育協会、1962年9月1日、74頁、NDLJP:6068095/41 
  3. ^ 『全記録 テレビ視聴率50年戦争―そのとき一億人が感動した』95頁。
  4. ^ 芸能・バラエティ高世帯視聴率番組|ビデオリサーチ(2009/11/9閲覧)
  5. ^ 「パーセントの裏っ側 テレビ放送三十年の軌跡(4) 世相を反映した『スター千一夜』」『サンデー毎日』1983年3月27日号、148頁。
  6. ^ 『フジテレビジョン 開局50年史 DATA BOOK』20頁。
  7. ^ 『メディアの支配者 下』99頁。
  8. ^ a b c 週刊TVガイド 1981年1月30日号 p.22 「開局以来の長寿番組『スタ千』9月で終了!」
  9. ^ 『メディアの支配者 下』100頁。
  10. ^ フジテレビで“秋の三谷まつり” 『スター千一夜』が復活”. ORICON STYLE (2015年10月8日). 2015年10月9日閲覧。
  11. ^ 北海道新聞』(マイクロフィルム版) 1959年(昭和34年)3月 - 1961年(昭和36年)9月、テレビ欄。
  12. ^ 『北海道新聞』(マイクロフィルム版) 1961年(昭和36年)10月 - 1965年(昭和40年)4月、テレビ欄。
  13. ^ 『北海道新聞』(縮刷版) 1972年(昭和47年)1月、テレビ欄。
  14. ^ 河北新報』1970年4月5日付朝刊、テレビ欄。
  15. ^ 『河北新報』1961年8月1日 - 1962年9月27日付朝刊、テレビ欄。
  16. ^ 福島民報』1962年10月4日付朝刊、テレビ欄。
  17. ^ 『福島民報』1962年4月3日、1965年10月27日付朝刊、テレビ欄。
  18. ^ 『福島民報』1970年2月2日、1971年9月30日付朝刊、テレビ欄。
  19. ^ 『北國新聞』1962年6月8日付朝刊、テレビ欄。
  20. ^ 『北國新聞』1965年3月7日付朝刊、テレビ欄。
  21. ^ 宮崎放送開局三十周年記念事業委員会 編『宮崎放送三十年史』宮崎放送、1984年12月20日、310 - 313頁。NDLJP:12275337/180 「昭和35年(1960年)10月 テレビプログラム」「昭和39年(1964年)7月 テレビプログラム」
  22. ^ 「1969(昭和44)年4月基本番組表 3局クロス」「1980(昭和55)年4月基本番組表 KTSあなたのかごしまベルト化」『KTS鹿児島テレビ50年史: 1968-2019 50th Anniversary』鹿児島テレビ放送、2019年 pp.316-319






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