アヘン
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日本におけるアヘン史
江戸時代まで
文献に見える古い記録では、梶原性全(かじわらしょうぜん:1265 - 1337)『頓医抄』の中にすでに「罌粟」の用語が見られる。くだって室町時代には、南蛮貿易によってケシの種がインドから津軽地方(現在の青森県)にもたらされ、それが「ツガル」というケシの俗称となったという伝承がある[5]。その後江戸時代を通じて現在の山梨県、和歌山県、大阪府付近などで栽培されたが、いずれも少量で高価であり、用途としても麻酔などの医療用や投獄者への自白剤などに限られていた。寺島良安『和漢三才図会』(1713年頃)巻百三には「阿片」や他の生薬、辰砂などと調合した「一粒金丹」なる丸薬が止瀉薬として紹介されている。この処方箋は備前岡山藩藩医木村玄石の手によるといい、これが元禄2年(1689年)弘前藩藩医和田玄良に秘薬として伝わった。藩医の和田玄春による寛政11年(1799年)の効能書には鎮痛や強壮が謳われている[6]。この薬の評判はすぐに江戸にまで及び、歌舞伎『富岡恋山開』には「新右衛門、それでおれが、月々呑まそうと思って、伝手を頼んで、津軽のお座敷で所望した一粒金丹」という台詞が残されるまでとなり、江戸市中で売られていたようである[6]。天保8年(1837年)摂津道修町の薬問屋奉公の太田四郎兵衛が種子を持ち帰って栽培し、はじめてアヘンの製造に成功したとの記述もみえる。
幕末
一方、16世紀半ばの明朝末期に、イギリスの三角貿易によりインドから大量のアヘンが中国内に流通し始め、やがて明が滅び清となった中国からは、長崎貿易を通じて吸煙用途の安価なアヘン(煙膏)や生アヘンが知られるようになった。日本は鎖国はしていたが、海外の情報はオランダ風説書によって得ていた。
19世紀に入るとオランダ以外の欧米諸国も日本にも執拗に開国を迫り出してきており、江戸幕府は対応に苦慮していた。1839年(天保10年)にアヘン戦争が始まると、オランダはそれまでの風説書とは別に、詳細な別段風説書としての報告書「阿片招禍録[7]」を作成して欧米が関わる動乱を詳細に報告を始めた。その3年後、明に続く大国と認識していた清がイギリスに大敗したことは幕政を大いに揺るがし、同年に異国船打払令を取り消した。このためアヘンに関しては日本も清の後追いになる危険もあったが、佐久間象山らによって魏源『聖武記』『海国図志』などが熱心に研究され(斎藤竹堂『鴉片始末』など)、また、これはアメリカ全権タウンゼント・ハリスが日本にアヘンの危険性を説いた。 鎖国を解いた4年後の安政5年(1858年)に安政五カ国条約締結に至り、このいずれの国からもアヘンの輸入を禁制とする条文が記載された[8][9][10][11][12][注 1]。 なお、国内では1822年から国内に散発していたコレラがこの年に江戸でも大流行し、蘭方医学者のポンペは患者にキニーネとアヘンの製剤を与えたことが記録されており[13]、また典医松本良順が開国を巡る朝廷説得の心労で倒れた徳川慶喜にアヘンを処方して不眠を収めたなど一定の需要があり、日本ではまだ吸煙の習慣も定着しておらず、栽培は全国に広がっていた。
明治期
長崎、横浜などの条約港では、貿易のために集まった外国商人が居住のため使用人や料理人として中国人を連れて来ており、彼らが密輸によりアヘンの煙膏を持ち込んで問題となっていた。長崎では中国人が日本人にアヘンの煙膏を大量に売りつけ、遊女などが中毒死する事件を伝えている[14]。やがてたびたび「あへん御禁令」の高札が立つようになり、慶応4年閏4月(1868年6月)、明治政府から最初のアヘン禁令となる太政官布告第319号を布告し、「あへん煙草は人の生気を消耗し命を縮めるもの」と初めて人害であることが明記された。政府は法整備を進め、明治3年8月8日(1870年9月3日)には「販売鴉片烟律」が布告され、使用や売買を含めて罰則規定を設け重罪とした。なおこの法律は後の現行法にほぼそのまま取り入れられ、「あへん煙に関する罪(刑法136-140条)」となっている。また、国内に流通するアヘンについても「生鴉片取扱規則」を同日発布し、記録や届出など管理の徹底を始めた。これらの法律は在留清国人にも適用された。
植民地におけるアヘン対策
アヘン戦争の敗戦以後、大量の中国人が東南アジアや東アジアへ移動しており、それとともにアヘンも拡大していった。
1877年にはイギリス商人によるアヘン密輸事件であるハートレー事件が起ったが、治外法権を行使されてハートレーは無罪となった。イギリス領事館から逆に法制度の未整備を指摘された明治政府は、1879年(明治12年)5月1日に薬用阿片売買竝製造規則(阿片専売法)を施行した。この法律において、政府は国内外におけるアヘンを独占的に購入し、許可薬局のみの専売とした。購入は医療用途のみとし、購入者及び栽培農家は政府による登録制とした。この専売制は政府に利益をもたらし、日清戦争の戦費となった。
日清戦争後、下関条約により清から台湾を割譲させて植民地とした日本は、台湾においてアヘンの製造と消費が一大産業になっていることを知った。台湾総督府衛生顧問だった後藤新平は伊藤博文に日本によるアヘン専売を建議し、1897年には台湾阿片令が敷かれる。同令においては、すでに常用者である台湾人は登録のうえアヘン購入を許可されたが、日本人、および中毒者でない台湾人の医療目的以外のアヘン使用は禁止された。1898年の阿片令では、台湾総督府専売局による専売が始まった。後藤は台湾のケシ栽培を課税対象とし、段階的に課税を厳格化することで、40年をかけ台湾のケシ生産を消滅させる一方、内地では、二反長音蔵などのケシ栽培を積極的に後援し、1935年頃には日本のアヘン年間生産量は15tに達した。台湾総督府は、日本産アヘンの台湾への輸出・販売により、莫大な利益を得た。
昭和に入ると日本は朝鮮や満洲の熱河省、遼寧省、内モンゴルなどでケシ栽培を奨励し、第二次世界大戦中は満州産アヘンに高額の税をかけ戦費を調達した[15]。
中華民国は、日本と違い、アヘンの全面禁止政策を採用していたが、四川省・雲南省などで密造された非合法のアヘンが闇で流通しており、軍閥の重要な資金源とされていた[16]。中国産アヘンの末端価格は日本産のそれの約半分であり、しばしば日本産アヘンを市場から駆逐した。日中戦争がはじまると、関東軍の影佐禎昭大佐の指導のもと、里見甫が秘密結社の青幇や紅幇と連携し里見機関を設立し、中国の通貨法幣を獲得するため、上海などでアヘンやモルヒネを大量に密売した。
注釈
出典
- ^ a b c 世界保健機関 (1994) (pdf). Lexicon of alchol and drug term. World Health Organization. pp. 47, 49-50. ISBN 92-4-154468-6 (HTML版 introductionが省略されている)
- ^ 2009 Annual Opium Survey
- ^ 2010 Annual Opium Survey
- ^ アフガニスタンのアヘン畑一掃にアメリカは消極的 ロシアは疑問
- ^ 伊澤一男『薬草カラー図鑑』「ケシ」。
- ^ a b 陸奥新報 2009年10月19日版ケシ栽培が生んだ秘薬=36。
- ^ 国立公文書館 激動幕末 開国の衝撃
- ^ 日蘭修好通商条約
- ^ 日米修好通商条約
- ^ 日英修好通商条約
- ^ 日露修好通商条約
- ^ 日仏修好通商条約
- ^ 長崎大学薬学部 近代薬学の到来期。
- ^ 崎陽雑報「阿片で遊女死なす」慶応4年8月
- ^ NHKスペシャル. “調査報告 日本軍と阿片”. 2008年8月17日閲覧。
- ^ 定時秀和「日本の阿片侵略と中国阿片の抵抗について」『歴史研究』第30号、大阪教育大学歴史学研究室、1992年、p87-122、ISSN 03869245、NAID 120001060213。
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