時代の諸相
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1976年に武者小路実篤が死去した際、武者小路がよく書いていた色紙「仲良き事は美しき哉」をパロディーにした作品を掲載した(4月30日号)。野菜の絵を、ロッキード事件の主役の田中角栄、児玉誉士夫、小佐野賢治の顔に置き換えたもので、下には武者小路がキャラクターのブラック氏を叱り付ける絵が添えられていた。「ブラック・アングル」での画風模倣の先駆であり、以後もさまざまな模倣画を掲載している。 1977年に当時の環境庁長官だった石原慎太郎の舌禍問題について、当時研ナオコが出演した『キンチョール』[大日本除虫菊)のCM(「トンデレラ、シンデレラ」)]にかけた絵を掲載した(5月13日号)。石原を蝿に見立て、石原蝿が暴言を吐くと研が「あっ、またまた言ッテレラ!」、石原蝿が落っこちると「あっ、慎(シン)デレラ!!」と言うもの。山藤は「失言放言は漫画にとって絶好の材料になる」(『山藤章二のブラックアングル25年 全体重』)と語っている。 1977年に井上陽水が大麻取締法違反(大麻所持)容疑で逮捕されたときには、サイケデリックスタイルの井上の似顔絵を描いた(9月30日号)。しかも、当人の代表曲「心もよう」をドラッグ・ソングに改作した。井上に限らず、ミュージシャンを揶揄した絵はほかにもあるが、後には、毒の要素は薄まり、ミュージシャンをネタにした絵もほとんど描かれなくなった。 1978年、阿部定事件をモチーフとした大島渚監督の映画「愛のコリーダ」が「公然猥褻罪」を理由に警察の手入れを受け、これに激怒した大島が裁判闘争を起こした。山藤はこれを題材に、大島が股間に大きなピラミッド形のテントをかぶせ「(裁判が)長引きそうだから、今評判の“ピラミッドパワー”で体力をつけとくか……」と話している絵を描いた(3月17日号)。この年、夕刊フジの100回エッセイ(青木雨彦「三尺さがって六尺しめて」、後に『にんげん百一科事典』講談社)のさし絵でも大島の似顔絵を書いているが、ここでは陰部を隠したオールヌードだった。 1978年の落語協会分裂騒動を題材にした作品もある。当時の落語協会会長5代目柳家小さんによる真打大量昇進に反発した同会顧問の6代目三遊亭圓生が、一門弟子を引き連れて脱会し、「落語三遊協会」を設立した。作品では、小さんがインスタントの味噌汁を作っている横で、圓生が鍋を煮て、「じっくり時間をかけなくちゃ、『ん、バカウマ!』てェわけにはいきませんョ!」と呟く(6月9日号)。小さんは永谷園の即席味噌汁「あさげ」のCMに出演しており、圓生はハウス食品の「ほんとうふ」のCMに出演していた。 1978年、「眠狂四郎シリーズ」で知られる小説家の柴田錬三郎が死去した。柴田は毒舌家としても有名だった。同時期、作家の佐木隆三が酔ってタクシー運転手を殴って捕まった事件があった。山藤はこの2つを作品でからめた。タクシーのボンネットに乗った佐木を、柴田が名刀「無想正宗」で峰打ちし「喝ッ!!わしの『円月殺法』には美学があったが君の『タクシー殺法』はただの狼藉じゃっ!!」と一喝するものであった(7月21日号)。 1978年、山口組三代目組長の田岡一雄が当時敵対していた松田組(現在は解散)の組員に狙撃され負傷するという事件が起きた。山藤は、田岡の病室を描き、そこに、当時グラウンドで暴力騒ぎを起こしていたシピン選手(巨人)を立たせた(7月28日号)。組員が「暴れさせてくれるんなら助っ人でもなんでもやるっていうヘンな外人が来ましたけど、どうします……?」と田岡に取り次いでいるという物騒な絵であった。暴力団関係者の似顔絵を出したのは田岡のケースがあるのみである。なお、田岡を狙撃した組員は後に遺体となって発見された。 1978年、日本PTA全国協議会がテレビワースト番組を発表。1位は当時人気の「8時だョ!全員集合」(TBS)であると発表されるや山藤はザ・ドリフターズが全員集合のOP/EDでの格好で「8時だョ!全員開き直れ」という踊りの絵を披露。「見せたくねぇというならテレビを消しゃいいんだよ(怒)」などの台詞を付けた絵を掲載した。添えられているキャラクターのブラック氏はPTAのうるさいおばさんに後ろから襟をつかまれているというもので、おばさんのもっていたプラカードには「ワーストマンガも摘発 PTA」と書かれていた。 日本医師会会長の武見太郎が絶対的権力を誇っていた頃、山藤は1978年と1979年に武見を風刺する作品を掲載している。前者では、厚生大臣として初入閣した橋本龍太郎を子どもの患者に見立て、厚生省が武見の下で支配されていることを描いた(1978年12月29日号)。後者では、テレビレポーターの質問に腹を立てた武見が水をまいた事件を受け、「老人性自制失調症」などで病院に担ぎ込まれた武見を描いた(1979年4月13日号)。現在は現役医者の内部告発や誤診被害者・遺族の裁判闘争が取り上げられるなど医療問題に対する報道が増えているが、山藤の作品は先駆的であった。 1980年にイラン駐在の米国大使館が当時の最高指導者ホメイニ師を崇拝する学生によって占拠され、その結果米国との国交が断絶される事態に発展した。当時のカーター米大統領は、人質の大使館員を救出することに失敗した。山藤はそのニュースを受けて、カーターがホメイニの家に夜這いに行ってひどい目にあわされるという日本昔話調の絵「夜這い加太(かーたー)」を描いた(5月16日号)。また、石津謙介は同年8月に相次いで発生した「この年の三大災害」とされる出来事(富士山大規模落石事故・静岡駅前地下街爆発事故・新宿西口バス放火事件)を指し、「一富士二鷹三茄子」とかけた造語「一富士、二地下、三バスビ」を生み出したが、山藤も「悪夢三題 一富士二地下三バス火」と題した風刺画(9月5日号)を寄稿している。 1981年、オリンピックの招致合戦に参加していた名古屋市が、国際オリンピック委員会総会でソウル市に敗れた。その件に関し、マスコミは、当時「名古屋風刺」のネタを披露していたタモリに感想を求めた。タモリはラジオ番組「オールナイトニッポン」(ニッポン放送)でコメントを出した。放送を聴いた山藤は「これより面白いものは出来ないと全面降伏、深夜放送を聴いていない人に紹介しようと思った」(『山藤章二のブラックアングル25年 全体重』)ため、タモリの感想を再録した作品を掲載した(10月16日号)。実際に話された文章を主体とした作品はこれが唯一。タモリはこれ以後名古屋ネタを封印している。また、別の回では当時の名古屋市長・本山政雄が井上靖・江川卓とともに“ヌカヨロコビ賞”受賞者として登場した(11月6日号)。 1982年、歯科医院でフッ化ナトリウムと間違えて猛毒のフッ化水素酸を歯に塗布した結果女児が死亡するという医療過誤事件が起きた。山藤は、当時皇籍離脱を希望する発言をしていた皇族の寬仁親王を歯医者の椅子に座らせ、「ほんとうに近頃の歯医者にはヘンテコなのがいるなァ。七番目の歯を抜きたいって頼んだのに、それは歯科典範にないからできません、だと……」と呟かせている(5月14日号)。 1982年に阪神タイガースコーチ2人による岡田功審判暴行事件が起き、当時の鈴木龍二セ・リーグ会長は2人の永久追放の検討を発表した。ところが、それに至る過程で発言が二転三転し、鈴木が高齢であったところから「老害」との批判を受けた。山藤は、鈴木が「わしゃ絶対にやめんぞ!」と鬼気迫る表情で語る姿をベン・シャーンの筆致で描いた(9月24日号)。筒井康隆はこの作品を「ドーミエに迫る一級の芸術作品」と評した(『ブラック=アングル(5)』解説)。 1983年にエイズが「男同士の奇病」として日本に上陸した頃、2週にわたって作品に取り上げた(8月5日号、8月12日号)。プロ野球の監督同士など、男性コンビの似顔絵の横に「A・I・D・S」で始まる文章を添えるという趣向であった。後に、エイズが同性愛者のみの病気でない深刻な問題であることが明らかになり、またマイノリティーの権利についての意識も高まってからは、エイズをこのように描くことは考えられなくなった。しかしながら、当時の世論がエイズおよびその患者に対し揶揄的かつ興味本位であったことは事実であり、山藤の作品も当時の雰囲気を知る資料となっている。 1984年、歌手の都はるみが「普通のおばさんに戻りたい」との理由で歌手活動から引退を発表(後に復帰)したがちょうどその頃『週刊文春』の連載記事を端に発したロス疑惑報道がテレビのワイドショー番組を埋め尽くし始めていた。山藤は都が「あたし普通のおばさんに戻ります。だからテレビも普通のテレビに戻りなさい!!」とテレビ業界を叱責するというスタイルの絵を掲載した。ロス疑惑報道は以降も過熱し榎本三恵子・池坊保子らが「ワイドショー日照権を主張する」という珍作を掲載したがストップには至らずついには三浦和義の逮捕、報道の過程で生じた報道被害でマスコミ業界が負の遺産を背負う羽目になった。このため現在はメディア・リテラシーの必要性が問われているが山藤の作品はまさに過熱報道への警鐘とメディア・リテラシーの必然性を予見した作品であったといえる。 1984年、農林水産省が食品コマーシャルに指針作りをすることになった。子供への影響を憂慮する消費者団体の声に応えるものであった。山藤はこれをヒントに、当時人気を博していたサントリービールCMのペンギンキャラクター(ひこねのりおのイラストによる)を取り上げ、ペンギンの顔を社長の佐治敬三に似せて描いた(9月28日号)。その手には消費者団体からの「文句状」が握られていた。頭上には「CAN ニンシテ チョーダイネ」(「CAN SUNTORY BEER」をもじったもの)というキャプションが添えられた。ブラック氏もペンギンキャラで登場した。 1984年に相撲界で小錦が台頭すると、山藤は彼の大きな全身像を錦絵風に描いた(10月12日号)。小錦の筋肉のたるみが尻に見えるところから、同年のグリコ・森永事件の犯人「かい人21面相」に引っかけて「かい人21尻相」と題した。絵には、たしかに21個分の尻のようなたるみが描かれていた。 1989年の「平成」改元にちなんで、刑事事件で逮捕された人々が「塀静」と習字している様子を描いた(1月27日号)。その顔ぶれは三浦和義(会社社長)、岡田茂(元三越社長)、田中角栄(元首相)、それにタレントの木村一八。木村は横山やすしの長男で、タクシー運転手に暴行して逮捕された。事件当時19歳であり、報道記事では「横山やすし長男」と伏せたものもあった。山藤は作品の上で自粛することはなく、前年にもピカソの絵に模した横山父子の絵を描いている(12月16日号)。なお、この年『週刊文春』が集団暴行殺人の加害少年らを実名報道し、論議を呼んだ。 1989年に読売ジャイアンツがこの年のセントラル・リーグを制覇した(同年の日本シリーズでは近鉄バファローズを破り日本一に輝く。)。この年の開幕前ニュースステーションのキャスター久米宏は『ジャイアンツ・エイド』という企画で糸井重里・黒鉄ヒロシに「巨人が優勝したら頭を丸める」と公言していたが現実化したためついに「断髪」。不気味な坊主頭で出演するに至った。山藤は当時公開されていた映画「バットマン」のマークをヒントに久米が歯を抜いて口をバットマンマークにしたという似顔絵を掲載している。絵には「巨人ファンの皆さんだって不気味な私の坊主頭は見たくないでしょ。でも約束は約束。代わりに歯を抜いてバットマンマークにしました。これじゃスルメ(※ 当時の監督藤田元司のキャッチフレーズ「スルメ野球」から)に歯が立ちませんって!!」と呟かせている。ちなみにバットマン関連では久米・小錦らがバットマンの仮装をして登場する絵が掲載されている。 1992年に右翼活動家の野村秋介が横山やすしらと「風の会」を結成、その年の参院選挙に比例区で立候補した。山藤はこれを「虱(しらみ)の党」と揶揄する作品を掲載した(7月24日号)。右翼を風刺の対象にしたイラストレーターは山藤のほかにほとんど例を見ないが、野村の抗議文に対し、山藤はすぐわびの手紙を送った。野村からは「貴殿の心情、諒と致しました」との返事が届いた(『朝日新聞』1993年10月21日)。ところが、作品掲載の翌1993年10月20日には、野村が一連の朝日新聞社の姿勢について東京本社で社長らと話し合いの後、その席で拳銃自殺するという凄惨な事件に発展した。事件直後の11月5日号の「ブラック・アングル」は白紙掲載という異例の事態となった。以後は右翼を風刺することはなくなった。
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