よばい〔よばひ〕【夜×這い/▽婚い】
夜這い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/16 09:43 UTC 版)
夜這い(よばい)は、古代日本の婚姻当初の一形態。求婚する女のもとへ通う妻問婚のこと。後には、強姦まがいに夜中に性交を目的に他人の寝ている場所を訪れる行為をも意味するようになった。語義は「呼び続ける」こと。古代の言霊信仰では、相手の名を呼び続けることで言霊の力で霊魂を引き寄せることができると考えられた[1]。
注釈
- ^ 「日本で」一般的に行われていたという見方[6]と、房総以西の太平洋側の地域、伊豆、知多半島、渥美半島、瀬戸内、九州などでより盛んに行われていた習俗であるという説(八木透によれば、地域差や県民性があるという)がある[7]。
- ^ 柳田國男によれば「正常な求婚手段ないし婚姻生活を表す代表的な婚姻語」で、飯島吉晴によれば「男女が自主的にパートナーを選ぶことができる、自由恋愛のためのシステム」[要出典]。
- ^ たとえば現在の愛知県や熊本県、相模や信州、丹後にあった[要出典]。
- ^ 福井県や京都府沿岸部、山口県の見島、愛知県の一部にあったとする[11]。
- ^ 赤松啓介『夜這いの民族学』(明石書店、1994年) では、娘、嫁にとどまらず、後家、嬶(カカァ)、ババァなどの表現もあり、少年同士が互いの母親の「味」について語り合う事例や、娘が母親の夜の相手を引っ張り込む様な事例も紹介されている[24]。
- ^ 赤松啓介は、『夜這いの民族学』(明石書店、1994年)において、自身の出身地と非常に近い土地を出身地としている柳田國男が夜這いについて知らないわけはなく、この風習について多くを著していないことについて、何らかの思想的・政治的理由によりこれに触れたくなかったのではないか、などと、柳田を批判している[26]。
出典
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典、百科事典マイペディア. “よばい”. コトバンク. 株式会社DIGITALIO. 2022年3月16日閲覧。
- ^ a b 赤松 2004, p. 不明.
- ^ “夜這い/婚い(よばい)の意味”. goo国語辞書. 2020年11月5日閲覧。
- ^ 下川 2011, p. 90.
- ^ 小学館 2011, p. 13.
- ^ a b 小学館 2011, p. 14.
- ^ 小学館 2011, pp. 161–163.
- ^ 赤松 2004, pp. 315–326.
- ^ 赤松 1994, pp. 37–42.
- ^ 小学館 2011, p. 162.
- ^ a b 『民俗の事典』 岩崎美術社、1972年、81頁。
- ^ 赤松 1994, p. 35.
- ^ 下川 2011, p. 93.
- ^ a b 小学館 2011, p. 15.
- ^ a b 小学館 2011, p. 165.
- ^ 赤松 1994, p. 30.
- ^ 小学館 2011, pp. 16–20.
- ^ 赤松 1994, pp. 116–122.
- ^ 赤松 1994, p. 93.
- ^ 赤松 1994, pp. 89–90.
- ^ 赤松 1994, pp. 84–86.
- ^ 赤松 1994, pp. 28, 48, 92.
- ^ 赤松 1994, pp. 65–66.
- ^ 赤松 1994, pp. 3–4.
- ^ 赤松 1994, pp. 60–61.
- ^ 赤松 1994, pp. 33–34.
- ^ 赤松 1994, p. 62.
- ^ 赤松 1994, p. 66.
- ^ 赤松 1994, pp. 32, 76.
- ^ 小学館 2011, p. 17.
- ^ 服部 2000, p. 223.
夜這い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 01:18 UTC 版)
夜這いは楢下だけでなく近郷全般に渡り大正末期から昭和初期にかけて流行していた。夜這いは4月~8月に限定され行われていて、家付きの娘には手を出さず奉公人を対象としていた。当時は養蚕が盛んだったため大農家には4~5人の奉公人が居たことも大きな要因とされている。現代では人権侵害にあたるものの、当時は悪い風習程度に捉えられてた。前述した楢下消防団も治安維持に努めていたものの、夜這いを防ぐことはできなかった。
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夜這い
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夜這い
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マスコミに出ることも多い上野千鶴子、田中優子、佐伯順子の出版する著作物や、それらを基にした江戸時代の有様が流布することによって、「前近代には性の抑圧がなかった」、「望みさえすれば好みの相手とセックスできた」、「性におおらかだった」といった歪んだ近世像や俗説が広まっているとして、作家であり比較文学者である小谷野敦は「江戸幻想」であると批判をしている。夜這いに関して小谷野によると、夜這いに代表される昔の農村の性的自由は素晴らしいという言説は、夜這い研究の民俗学者である赤松啓介のものを上野千鶴子がリヴァイヴァルしていることが影響しているのだという。さらに小谷野は歴史家の村上信彦、歴史学者・沢山美果子の『出産と身体の近世』、民俗学者・岩田重則の『ムラの若者・くにの若者』といった研究を参照にして、上野らが夜這いを美化していると指摘する。小谷野に参照されたそれらの研究によると、若衆宿は娘宿を支配する関係にあり、男は何人と寝ても非難されなかったが、女は一人の男と寝ると婚姻関係に入るものとされたことや、娘は夜這いを拒否することはできず不本意な妊娠をして私生児を産んだりしたこと、固定した性関係は結婚に至るものとされたことなどは普通に起きていたという。こういったことを踏まえて、小谷野は「前近代の日本人は性に関しておおらかだった」というところの「おおらか」とは、強姦の自由、セクハラの自由、妊娠したら堕胎する自由、間引きする自由といったものを含んでいると指摘する。実際に向谷喜久江の『よばいのあったころ――証言・周防の性風俗』には「娘にとって、夜這いほど恐ろしいもんはありませんでした」、「結婚していちばん嬉しかったんは、夜這いのことを心配せんでぐっすり眠れることでした」といった証言がある。 上記の夜這いに関連して明治以前には処女概念がなかったといわれることがあるが、それについて小谷野は1834年の『色道禁秘抄』という本に処女かどうか鑑別する方法が書かれている点から、その言説は嘘だと考えている。また、曲亭馬琴の時点ですでに姑摩姫という処女が強くて美しいイメージのある人物がいたことも指摘する。 戦国時代にいた宣教師のルイス・フロイスは、日本人女性は貞操や純潔について問題にしていないとしたが、それはフロイスが未だ近世町人として自立していない前の、下層町人、あるいは農民の娘たちの姿を見たのだろうと小谷野は言う。小谷野の私見では日本には公家文化、武士文化、町人文化といった3つの層が存在しており、公家文化は母系制や双系制であったため女の貞操をそれほど厳重に注意する必要がなかったが、武士文化では父系制をとったため女が政略結婚の重要な「財」としてあった。そのため、近世の武家の女性に不義密通が多かったが、その女性たちは厳しい処罰の対象になったことが歴史学者・氏家幹人の『不義密通』に描かれており、武家の女性は処女であることが求められた。また町人文化は公家文化とは大きく異なり、上層町人において自家の娘である「地女」を男たちの自由な性の対象とならぬ用に隔離されており、娘の恋愛・結婚に対してかなり厳しかったことが『心中天網島』や『心中宵庚申』といった浄瑠璃に示されている。
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