創られた「伝承」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 21:27 UTC 版)
この大会の起源として、これまで広く流布していた言説に次のようなものがある。 隅田川花火大会は、大飢饉とコレラの流行によって江戸で多くの死者が出た1732年、8代将軍・徳川吉宗が大川端(現在の隅田川河畔)で催した「川施餓鬼」(死者の霊を弔う法会)に遡る。1733年7月9日(享保18年5月28日)、幕府は前年にならって川施餓鬼とあわせ、慰霊と悪病退散を祈願する目的で、両国の川開きの日に水神祭を実施。その際に花火を打ち上げたのが、現在の花火大会のルーツとされる。 この半ば定説化していた「伝承」は、明治時代中期から昭和初期(1890年代~1930年代)にかけて徐々に創られていったものであり、歴史的事実とはかけ離れている。例えば、コレラの日本国内での流行は、1822(文政5)年に西日本一帯で起きたのが最初であり、1732年に流行したというのは事実に反する。 下に引用した清水晴風の文章は、この「伝承」が形成される途上の1907(明治40)年に書かれたものである。江戸時代の文献には一切登場しない「享保18年」や「死者供養の花火打ち上げ」などといった情報が記載されている一方、大正時代に突如登場する「水神祭」というワードは、まだ見られない。 「両国の夏の納涼花火」隅田川の夏の風物詩として知られる隅田川花火大会の歴史は、享保18年(1733)5月28日の両国川開きにまで溯る。大飢饉や疫病による死者供養と災厄除去を祈願して、花火師、6代目鍵屋弥兵衛が、花火を打ち上げたのが始まりだった。明治期には11代目鍵屋弥兵衛が、外国から輸入された新しい薬剤を使って赤、青などの発色花火の打ち上げに成功し、また、マニラから持ち帰ったスターマインを、初めて両国川開きで打ち上げた。明治30年(1897)8月には、見物客の重みで木橋の両国橋の欄干が落ち、多くの死傷者が出る大惨事が起きた。この事故を契機に両国橋は旧橋より上流に鉄橋で架けられた。打ち上げ花火、冠菊(しだれ柳)と両国橋(鉄橋)の絵あり。「昔両国の川開きは五月廿八日に限りたるも今は一定の日はなし花火を打上る前警察署の認可を得て後に執行と虽とも此納涼今に至るも東京名物の一なりと定む」と記載あり。50丁表に「江戸一流元祖南京 龍田〇〇ち 男山〇〇〇 むさしの〇〇 安部野らんきく 宮城野乃萩横山町壱丁目 花火せん香かきや弥兵衛」と記載がある花火師、鍵屋弥兵衛の広告あり。 — 清水晴風『東京名物百人一首』1907年8月「両国の夏の納涼花火」より抜粋
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