95か条の論題
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本当に「掲示」されたのか?
数百年にわたる無数の研究にもかかわらず、1517年10月31日にルターが本当にこのような文書を掲示したのか、その事実性には論争があって解決していない[31][33][34]。日付が違うという説もあれば、ルター自身が自分で門に打ち付けたのか、人にやらせたのかという議論もある[32]。
同時代の史料で、この出来事を伝える唯一の情報源は、ルターの同僚だったフィリップ・メランヒトン(1497-1560)によるものである[31]。ルターが1546年2月に死去してから3か月後に刊行されたルターの著作集第2巻(1546年)の序文の中で、メランヒトンは、ルターが門扉に95か条の論題を掲示したと述べている[31]。しかし他の証拠はない[31]。
ルターが1517年10月31日に張り出したとされる文書が印刷されたものであったと伝えられているが[40]、実際にそうであったのか、手書きのものだったのかもわかっていない[32]。一般に当時の大学の掲示板に貼りだされる文書は、手書き、印刷どちらの可能性もある[32]。いずれにせよその原本も、印刷前の版も現存しない[32]。現存するのは、マインツ大司教アルブレヒトを経由してローマ教皇レオ10世に送られたものだけである[46]。ただしその中身は、1517年末にライプツィヒで印刷されたコピーと同じである[46]。
実際に門に貼りだしたかどうかや正確な日付はわからないが、いずれにせよこの時期にルターがこの文書を公表したことは確からしい[34]。
注釈
- ^ これと同じ物がコトバンクのルターの「九十五か条の論題」(抄)に掲載されている[2]。
- ^ マタイ4章17節。「悔い改めよ。天の国は近づいた」
- ^ キリスト教徒が過去の罪を悔いて神の赦しを請うこと[5]。カトリックではゆるしの秘跡ともいう。
- ^ マタイ13章25節。「人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った」。ここでいう「彼の敵」は反キリストを意味する。
- ^ カトリックでは、司祭以上の聖職だけが持つもので、罪を痛悔した者のために罪とその罰のゆるしをキリストに代って告知する行為のこと[8]。
- ^ 諸聖人の功徳によって、告解の秘跡後に残った有限の罰の償いに対して与えるゆるしのこと[10]。
- ^ 贖宥状の購入によって全贖宥を得られると公示したのは教皇レオ10世自身であって、ルターは贖宥説教者の誤りであるという口調で批判しているが、この条ではかなり直接的に教皇の決定そのものに異議を唱えている。
- ^ 「宣べ伝える」は、宣べ伝える業、伝道の意で、本来伝えるべきは「神の言葉」であって「人間の」ではないということを示唆している。
- ^ カトリックにおける告解の秘跡の本質的部分で、神に対する愛または恐れから起こる悔い改め[13]。
- ^ 使徒行伝8章18-24節。サマリア人シモン・マグスが使徒ペテロとヨハネに対して、金銭を提供することによって聖霊の降下を依頼した故事をさす。
- ^ キリスト者に対する教えあるいは訴えであるため、以下で続く「キリスト者は教えられなければならない」は省略した。
- ^ そもそも教皇ユリウス2世の事業を引き継いだレオ10世が、この聖堂の建設費を調達するために大々的にドイツで販売されることになったことから、贖宥状の問題が顕在化した。
- ^ マタイ20章16節。「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」
- ^ 第一コリント12章28節。「神は教会の中で、人々を立てて、第一に使徒、第二に預言者、第三に教師とし、次に力あるわざを行う者、次にいやしの賜物を持つ者、また補助者、管理者、種々の異言を語る者をおかれた」
- ^ エレミヤ6章14節。「彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ。』と言っている」、および、エゼキエル13章10節。「実に、彼らは、平安がないのに『平安。』と言って、わたしの民を惑わし、壁を建てると、すぐ、それをしっくいで上塗りしてしまう」、同16節。「エルサレムについて預言し、平安がないのに平安の幻を見ていたイスラエルの預言者どもよ。・・神である主の御告げ」
- ^ 使徒行伝14章22節。「弟子たちの魂を確立し、その信仰にとどまるよう彼らに勧め、『わたしたちが神の王国に入るためには、多くの患難を経なければならない』と言った」
- ^ 旧東ドイツの義務教育で用いられていた歴史教科書でも、「1517年のルターによる95ヶ条の発表とともにドイツの宗教改革は始まった。」とある[26]。
- ^ 10月31日の「正午」とする文献もある[32]。
- ^ 後述の通り、手書きのものだったとする異説もある。
- ^ 18世紀のドイツ劇作家ゴットホルト・エフライム・レッシングは、レオ10世が「兄弟マルティンはよい頭を持っている。あれは修道士の喧嘩にすぎまい」と述べたと伝えている。しかしレッシングは全く根拠を示していない[49]。
- ^ マインツ大司教アルブレヒトは、ブランデンブルクを治めるホーエンツォレルン家の出自である。マインツ大司教領はドイツの西部のライン川流域にあるのに対し、ブランデンブルクはドイツ東部のエルベ川流域にあるので、両者は大きく離れている。アルブレヒトは、実際には生涯のほとんどをブランデンブルクで過ごし、マインツにはほとんど赴かなかったと伝えられている。
- ^ 当時の識字率は都市部と農村部でも開きがあったと考えられている[53]。しかしドイツ全体の人口のうち、都市部が占める割合は10パーセント以下であり[54]、多くは文字の読めない農民だった[53]。
- ^ 矛盾しているようだが、これらのパンフレット(ビラ)には、「文字が読めない者は、読める者にこれを見せて読んでもらえ」と印字されていた。
- ^ その頃、ドミニコ修道会の修道士で迫害を請けていた人物が何人かいる。教皇を批判して火刑にされたジロラモ・サヴォナローラ(1452-1498)や、人文主義者のヨハネス・ロイヒリン(1455-1522)である[49]。当時はキリスト教徒によってユダヤ人とユダヤ教への迫害が行われており、人文主義者としてヘブライ語の研究もしていたロイヒリンは、ユダヤの古典にも歴史的価値があると考え、ユダヤの古文書の焚書に反対した。その結果、ローマ教皇との対立を招き、自身が迫害されるに及んだ[56]。
- ^ 厳密には、「大規模に発行された」初の例が第1回十字軍であり、贖宥状自体はそれ以前から存在していた[60]。
- ^ 特にフスの場合には事情が込み入っている。当時は教皇を名乗る人物が3人いる教会大分裂期で、そのうちヨハネス23世が別の「教皇」を武力で討つための軍費を募って贖宥状を出したものを、フスが批判したのだった。結局ヨハネス23世自身がコンスタンツ公会議によって異端や聖職売買で有罪とされて全ての権威を失うが、フスはそのまま火刑に処された[60]。
- ^ 1519年のライプツィヒ討論では、教会側はルターから「フスの主張に共感できる点がある」との発言を引き出すことで、ルターを異端と断定する論法をとった。
- ^ そのコレクション数は1509年の5000点から、1520年には19,013点まで増えていた[65]。しかしのちに、ルターが聖遺物崇拝も偶像崇拝の一種であると批判を始めると、選帝侯はコレクションを手放さざるを得なくなった[66]。コレクションのうち現存するのは、ルターに与えられたガラス製の杯1点のみである[67]。
- ^ ザクセン選帝侯領の富の源泉は、領内の銀鉱山にあった。当時の鉱山開発技術の発展によって、フリードリヒ3世の時代に鉱山収入は伸び、選帝侯を潤したのだった。フッガー家も鉱山収入で同時期に急速に発展したのであるし、ルターの父親はザクセン選帝侯の鉱山の監督官として財を築いた人物である[68]。
- ^ ルターがヴィッテンベルクの教会で庶民の告解を聞いていると、罪の告白をしながらも、反省の素振りも見せない者がいた。ルターがその者に対して悔悛の秘蹟を拒むと、その人物は買ってきた贖宥状をルターに見せびらかし、ルターを嘲ったという[71]。
- ^ ルターが言うには、テッツェルは「お前が聖母マリアを犯して身篭らせたとしても、贖宥状を買えばその罪はたちまち許される」など豪語したという[35][44]。しかしこのルターの引用は、事実ではなかっただろうと考えられている[74]。
- ^ たとえば聖戦であっても、人(敵の兵士であっても)を殺めること自体は神が定めた法に反することであり、罪が発生する。この罪に対し、神による罰と教会による罰が与えられる。ただし神による罰は告解によって神の赦しを得ることができる。一方、教会による罰は現世での罰でもあり、現世での善行によって贖わなければならない。例をあげると、ローマ教皇アレクサンデル2世の命によってヘイスティングズの戦い(1066年)に加わった騎士は、戦場で敵を1人殺すごとに10年の「罰」を背負うことになった[44]。存命中に善行を行ったり、巡礼に出て聖地を訪問したり聖遺物を礼拝したりすることで、溜まった「罰」はいくらかづつ贖われる[44]。これには代理を立てることもできるし、寄付によって済ますこともできる[60]。贖宥状は、溜まった「罰」のうち「7年」などの期間を免じるものである。もしも死ぬまでに罰をすべて贖い切れなかった場合には、死後、煉獄に落ち、罰が浄化されるまでの期間、焼かれることになる[44]。
- ^ ちょうどこのとき、アウクスブルクで帝国議会が開催されるので、諸侯や有力司教がアウクスブルクに集まることになった。そこで、非公式にルターと教会の学者の会談が行われた[78]。非公式であるがゆえに会場は私邸が使われたのだが、そこはフッガー家の屋敷だった[46]。この会談は、その後に行われる討論や審問に較べると、穏やかに行われた。教会側はルターに自説の撤回や、信徒を混乱させる説教の中止を要請したが、ルターは受け入れなかった。そこで、教皇の特使はルターがおおっぴらに問題発言をしなければ、教会側もルターを責めないという妥協案を示した。これには、そのかわりにルターを枢機卿に推薦するという条件も付与された。ルターはこれに同意し、この審問ののちしばらくのあいだは沈黙した。しかしドミニコ会がルターを攻撃し、ライプツィヒ討論を仕掛けることで、ルターはこの沈黙を破る羽目になった[46]。このアウクスブルク審問の裏側では、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世と、ローマ教皇の政治的綱引きが行われていた。マクシミリアン1世は死期が迫っており(実際、この2か月後に死んだ。)、身内のハプスブルク家から後継者を推そうとしていた。皇帝と対立するローマ教皇はそれを妨げようとしており、教皇は次期皇帝にはドイツ諸侯の最有力者であるザクセン選帝侯フリードリヒ3世を推そうとしていた。ルターはザクセン選帝侯のお膝元ヴィッテンベルクの神学者であるから、マクシミリアン1世は、ローマ教皇にルターを攻撃させることで、ザクセン選帝侯とローマ教皇の仲を裂ける狙いがあった。一方のローマ教皇側は、ザクセン選帝侯を抱き込むために、ルターを強く攻撃することは避けたかった。結局、この審問は物別れにおわったが、マクシミリアン1世も後継者を指名できないまま死んでしまい、皇帝選挙が行われることになる[46]。
出典
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