ザクセン選帝侯と贖宥状
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 00:19 UTC 版)
「95か条の論題」の記事における「ザクセン選帝侯と贖宥状」の解説
当時のザクセン選帝侯フリードリヒ3世は、レオ10世とドミニコ修道会の贖宥状販売には異を唱え、ザクセン領内での贖宥状の販売を禁止した。と言っても、ザクセン選帝侯が贖宥状の販売を禁じたのはルターのような敬虔さからくる動機ではなく、領内の経済を慮ってのことだったと考えられている。 ザクセン選帝侯自身、以前はさかんに贖宥状を販売していて、その売上で聖遺物を収集していた。ザクセン選帝侯の聖遺物コレクションは当時のヨーロッパを代表するものであり、聖遺物を拝むことは、それだけで贖宥になるとされていたので、各地から参拝のために巡礼者が集まってきていた。巡礼者が領内で費やす金はザクセン選帝侯領内の経済を潤していたのだが、贖宥状の販売はこれを妨げる危険性があった。 また、領民が稼いだ金が、贖宥状の売上としてローマに送られるということは、ザクセン選帝侯領の富がローマへ流失していることにほかならなかった。当時のドイツは「ローマの雌牛」(乳を絞られる存在)と蔑まれており、ドイツ諸侯はこれを苦々しく思っていた。 この贖宥状はドミニコ修道会の修道士が販売を請け負っていたので、ザクセン選帝侯はドミニコ会の修道士を全員領内から追放したのだった。しかしテッツェルはザクセン領地のギリギリまで行って贖宥状販売を行ったので、ザクセンの領民の中からも数多くの者が贖宥状を買いに行った。
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