ザクセン選帝侯妃
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「エレオノーレ・フォン・ザクセン=アイゼナハ」の記事における「ザクセン選帝侯妃」の解説
1692年4月17日にライプツィヒにおいてエレオノーレはザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク4世と再婚し、子供たちとともにドレスデンに移った。この結婚は、ザクセンとの同盟を望むブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世およびヨハン・ゲオルク4世の母アンナ・ソフィー・ア・ダンマークのすすめで行われ、表向きはザクセン選帝侯家の正嫡を得るためであったが、実際のところはヨハン・ゲオルク4世と愛妾マグダレーナ・ジビュレ・フォン・ナイトシュッツの関係を終わらせるためであった。 この結婚はうまくいかなかった。ヨハン・ゲオルク4世は愛妾マグダレーナと公然と共に住んでおり、マグダレーナはザクセン選帝侯の最初の公妾となり、一方でエレオノーレは選帝侯公邸に追いやられた。加えて、エレオノーレは1692年8月と1693年2月に2回流産を経験し、1693年12月には想像妊娠を経験した。1693年3月に、ヨハン・ゲオルク4世がすでに愛妾マグダレーナと結婚していたため、エレオノーレは法的には妃ではないという噂がザクセン宮廷に流れた。ヨハン・ゲオルク4世と愛妾との婚姻契約がなされたことを裏付ける書類が見つかったが、ヨハン・ゲオルク4世は(おそらくホーエンツォレルン家の怒りを買うのを恐れて)この婚姻契約は正式なものではないと考えていると述べ、これはマグダレーナとの子供を嫡出とするためだけであるとした 。それにもかかわらず、ヨハン・ゲオルク4世はどうしても愛妾との関係を合法なものとしたいと望み、エレオノーレおよびその子供たちを除こうとした。エレオノーレは自身と子供たちの生命の危機を感じ、選帝侯公邸を去りプレッチュ(英語版)に移った。この間、エレオノーレはイングランド大使ジョージ・ステップニー(英語版)に信を置き、ステップニーはエレオノーレとザクセン宮廷について広範囲にわたって記録を残している。
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