ザクセン選帝侯の対応とは? わかりやすく解説

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ザクセン選帝侯の対応

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/25 05:27 UTC 版)

レオ10世による贖宥状」の記事における「ザクセン選帝侯の対応」の解説

フリードリヒ3世1508年頃) 当時ザクセン選帝侯フリードリヒ3世は、この贖宥状に眉をひそめ、ザクセン領内での贖宥状販売禁止した。ただし、ザクセン選帝侯贖宥状販売禁じたのは、純粋な信仰上の理由というよりも、領地経済慮ってのことだった。 もともとドイツ領邦君主たちは経済的にローマ搾取されドイツの富がイタリアへ流失しているとの不満があった。教会ドイツ諸侯支配受けずドイツ庶民十分の一税課すことができ、ドイツの民から集められた税や贖宥状売上イタリア潤していて、ドイツは「ローマ雌牛」と蔑まれていた。 これに加え安易な贖宥状乱発は、巡礼者訪れることで潤うザクセン経済阻害する恐れがあった。ザクセン選帝侯ヨーロッパ代表する聖遺物収集家である。聖遺物というものは、それを拝み巡礼に行くことで、聖遺物著名度に応じた贖宥得られることになっていた。そのため、フリードリヒ3世コレクション参拝するために各地から巡礼者集まってきており、彼らが領内費やす金がザクセン選帝侯領内の経済潤していた。贖宥状はこれを損なうものだったこうしたことからザクセン選帝侯は、贖宥状販売請け負っているドミニコ会修道士ザクセン領から追放し立ち入り禁止した。 そのため贖宥状売りザクセン領に入ることができず、代わりにツェルプスト(ドイツ語版英語版)やユータボグ(ドイツ語版のようなザクセン近傍売り歩くことになったザクセン領民贖宥状売りのところまで買い求めにゆき、領内みやげ話持ち帰ってきた。彼らが話す贖宥状売り様子聞いて憤激した者がいた。それがザクセン選帝侯領の都であるヴィッテンベルク大学の若い神学教授マルティン・ルターである。ルターによる贖宥状批判教会組織教皇にまで及び、ドイツの宗教改革に火がついた。

※この「ザクセン選帝侯の対応」の解説は、「レオ10世による贖宥状」の解説の一部です。
「ザクセン選帝侯の対応」を含む「レオ10世による贖宥状」の記事については、「レオ10世による贖宥状」の概要を参照ください。

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