ザクセン選帝侯の対応
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「レオ10世による贖宥状」の記事における「ザクセン選帝侯の対応」の解説
フリードリヒ3世(1508年頃) 当時のザクセン選帝侯フリードリヒ3世は、この贖宥状に眉をひそめ、ザクセン領内での贖宥状の販売を禁止した。ただし、ザクセン選帝侯が贖宥状の販売を禁じたのは、純粋な信仰上の理由というよりも、領地の経済を慮ってのことだった。 もともとドイツの領邦君主たちは経済的にローマに搾取され、ドイツの富がイタリアへ流失しているとの不満があった。教会はドイツ諸侯の支配を受けずにドイツの庶民に十分の一税を課すことができ、ドイツの民から集められた税や贖宥状の売上はイタリアを潤していて、ドイツは「ローマの雌牛」と蔑まれていた。 これに加え、安易な贖宥状の乱発は、巡礼者が訪れることで潤うザクセン経済を阻害する恐れがあった。ザクセン選帝侯はヨーロッパを代表する聖遺物の収集家である。聖遺物というものは、それを拝みに巡礼に行くことで、聖遺物の著名度に応じた贖宥が得られることになっていた。そのため、フリードリヒ3世のコレクションを参拝するために各地から巡礼者が集まってきており、彼らが領内で費やす金がザクセン選帝侯領内の経済を潤していた。贖宥状はこれを損なうものだった。 こうしたことからザクセン選帝侯は、贖宥状の販売を請け負っているドミニコ会修道士をザクセン領から追放し、立ち入りを禁止した。 そのため贖宥状売りはザクセン領に入ることができず、代わりにツェルプスト(ドイツ語版、英語版)やユータボグ(ドイツ語版)のような、ザクセン領近傍で売り歩くことになった。ザクセン領民は贖宥状売りのところまで買い求めにゆき、領内にみやげ話を持ち帰ってきた。彼らが話す贖宥状売りの様子を聞いて、憤激した者がいた。それがザクセン選帝侯領の都であるヴィッテンベルクの大学の若い神学教授、マルティン・ルターである。ルターによる贖宥状批判は教会組織や教皇にまで及び、ドイツの宗教改革に火がついた。
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