青山宗俊 青山宗俊の概要

青山宗俊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/15 04:11 UTC 版)

 
青山宗俊
青山宗俊
時代 江戸時代前期
生誕 慶長9年11月6日1604年12月26日
死没 延宝7年2月15日1679年3月26日
改名 伊勢千代(幼名)、光俊(初名)、宗俊
別名 藤五郎
戒名 幡竜院殿義辺寸忠大居士
墓所 京都府京都市北区紫野大徳寺町の大徳寺芳春院
官位 従五位下従四位下因幡守
幕府 江戸幕府 書院番頭大番頭大坂城代
主君 徳川家光家綱
信濃小諸藩主、摂津国河内国内、遠江浜松藩
氏族 青山氏
父母 青山忠俊[1]大久保忠佐
兄弟 宗俊宗祐、忠栄、正俊、滝川正利正室、寿松院、川口正信室、中根正次室
石橋氏、大河原氏
忠丸、忠雄忠重、貞俊、忠貴
永井尚長正室、本多忠隆室
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生涯

慶長9年(1604年)、徳川家譜代の重臣・青山忠俊[2]の長男として誕生した。元和7年(1621年)、従五位下・因幡守に叙位・任官する。元和9年(1623年)に父が3代将軍徳川家光の勘気を受けて蟄居になった際、父と共に相模国高座郡溝郷に蟄居した。

寛永11年(1634年)、家光から許されて再出仕する。寛永15年(1638年)12月1日に書院番頭に任じられ、武蔵・相模国内で3,000石を与えられて旗本となる。寛永21年(1644年)5月23日に大番頭に任じられる。正保5年(1648年)閏1月19日、信濃小諸において2万7,000石を加増され、合計3万石の大名となり、信濃小諸藩主となる[1]。また本領とは別に信濃国内に幕府領1万5,000石を預かる。小諸藩では御影用水・新田の開削という大規模な工事に着手し、民衆も苦しんだが田地は増大して増産効果をもたらした[3]

寛文2年(1662年)3月29日、大坂城代に任じられたため、所領を2万石加増されて合計5万石の大名となった上で、所領を摂津国河内国和泉国・遠江・相模・武蔵などに移され、移封となる。寛文9年(1669年)12月26日、従四位下に昇叙する。延宝6年(1678年)に大坂城代を辞職し、8月18日に遠江浜松に移封となる。

延宝7年(1679年)2月15日、死去。享年76。跡を次男の忠雄が継いだ。

系譜

出典

  • 塩川友衛 『小諸藩』〈シリーズ藩物語〉現代書館、2007年8月。 
  • 寛政重修諸家譜 巻第727」



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