小田急3000形電車 (初代)
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沿革
運用開始
1957年5月20日に日本車輌製造製の3001×8が入線[44]、同年6月上旬には日本車輌製造製の3021×8が入線した[44]。同年6月から小田急線内での試運転を開始し[44]、小田急線内では127km/hという速度を記録した[20] が、曲線の多い小田急線の軌道条件ではこれが限界であった[138]。このため、小田急と研究所は「これ以上の高速性能の確認は軌道条件が優れている国鉄の路線上での走行試験によって行う以外に方法はない」という意見で一致していた[20]。なお、ディスクブレーキの容量不足によってディスクに熱亀裂の発生が認められた[139] ことから、ディスクブレーキの最大圧力を制限する措置がとられている[139]。
また、SE車の完成後にスペインから日本へタルゴの売り込みがあり[140]、小田急にも訪れた[140]。この時、小田急側では売り込みにきた担当者をSE車に乗せて歓迎した[140][注 19]。商談は成立しなかった[140] が、6月26日・27日に行われた展示会の席上では、当時研究所長だった篠原武司が「タルゴの開発に携わったホセ・ルイス・オリオールが『実際に乗ってみて150km/hは大丈夫だ』という感想を述べた」と発言している[3]。また、この時の雑誌ではSE車に対して「日本製タルゴ」という表現も使用された[141]。
「電車といえば四角い箱」であった時代において、SE車は鉄道ファンだけではなく一般利用者からも注目を集めた[142]。同年7月6日から箱根特急においてSE車の営業運行が開始された[143][44]が、そのすぐ後に夏休みを迎えたこともあり[8]、前評判を聞いた利用者が殺到し[8][143]、連日満席となる好成績となった[8]。箱根湯本駅前には「祝 超特急車運転開始」という歓迎アーチが立てられた[144]。
ただ、狭い経堂工場には8両連接車のSE車が全て同時に入場することはできなかった[145][注 9]。連接車は車体を持ち上げないと連結部を切り離しできない[146] ため、経堂工場の構内留置線にリフティングジャッキが設置された[147]。さらに、通常のボギー車であれば車内床に設置された点検蓋を開くことで台車と車体を結ぶ配線の接続や分離を行うことが可能である[115] が、SE車では配線の切り離しにも、その前に床下に潜り込んでの作業を強いられた[146]。低床構造のため床下が狭く[115]、床下作業は困難で[115]、主電動機の送風ダクトに至っては手探りでボルトを脱着する有様であった[115]。ようやく分解された編成は、経堂工場の構内に分散して留め置かれていたという[146][注 10]。隣接する経堂検車区でも、SE車の検査のためにピット線を延長することとなった[60] が、延長された部分は庫外である上に曲線にかかっていた[60]。また、制御装置の点検も車両側面から行うことは出来ず[139]、床下に潜り込まなければ目視点検さえ出来なかった[139]。
狭軌世界最高速度記録
国鉄線上での試験
折りしも研究所では1957年5月30日に研究所創立50周年を記念して銀座山葉ホールにて「東京 - 大阪間3時間への可能性」という講演会を開いていた[143][148]が、この講演は大きな反響を呼び[143][149]、朝日新聞社が後援していた関係から国電の中吊り広告にも掲載され[150]、新聞・雑誌などでも取り上げられていた[149]。既に、国鉄では後に新幹線となる高速電車列車開発に向けた動きが始まっていたのである[151]。しかも、この講演会で三木が発表した内容は、車体に関してはSE車とほぼ同様の考え方であった[149]。
山本はこの年の7月2日に[66]、国鉄に技師長として復職していた島に対して[66]、試験で収集されたデータを小田急と国鉄の双方で利用することを条件として[138]、「東海道本線を貸してもらえないだろうか」と[138] SE車の国鉄線上での高速試験を申し入れていた[66]。これに対して、島は「国鉄の方から要求して試験することにしたい」と[151]、SE車の国鉄線上での高速試験を快諾した[152][注 20]。試験の本来の目的は基本データの収集であったが、「高速電車列車開発につながるものであればなんでも利用したい」と島は考えたのである[151]。島は国鉄側の責任者として副技師長の石原米彦を指名[138]、石原は「絶対に145km/h以上出さないこと」を条件に受諾した[138]。
この決定には、国鉄部内でも「国鉄が私鉄の車両を借りて高速試験をするとは何事だ」[144]「ライバル路線の私鉄電車を国鉄線で試験するなど論外」[153] といった反対意見が出た。当時の国鉄部内には客車を機関車が牽引する機関車列車方式(動力集中方式)に対する「信仰」が根強く残っていた[151] が、分散動力方式の支持者からも「国鉄の面子が立たない」という反対意見が多かった[144]。最終的には「国鉄が試験車両を作るまで待てない」と押し切るしかなかったという[154]。
一方、SE車は「車両として」日本で初めての信託車両であり[155][3]、最終所有者は支払いが終了するまでは住友信託銀行であった[156] ため、「80系電車のように試験中に燃えてしまったらどうするのか」という声も上がった[154]。また、国鉄線内で事故が発生した場合の責任所在などの問題もあった[156]。それらの問題を解決し、1957年9月に小田急社長の安藤楢六と国鉄総裁の十河信二との間で、SE車の貸借について契約が行われ[156]、高速試験そのものに保険を掛けることで決着した[157]。
こうして、私鉄の車両が国鉄線上で高速試験を行うという、日本の鉄道史上で初めてとなる[20] 国鉄・私鉄合同の試験が行われることになった[20][注 21]。試験の交渉窓口担当者として、山本が陣頭指揮にあたることになった[159]。
前記に「車両として」と記載したのは、日本国内で初めての信託車両は、帝都高速度交通営団(営団地下鉄)1700形である[155]。同形式の三菱電機製の主電動機、制御装置、空気ブレーキ装置などの主要電機品(約1億2,300万円相当)は、営団地下鉄の購入品ではなく三井信託銀行からの信託車両とした[160]。同時期に小田急もSE車を住友信託銀行との車両信託に付しているが、営団地下鉄1700形はSE車よりも4日早く契約しており、日本国内の鉄道車両では初めての信託車両である[155]。ただし、機器を含めた「鉄道車両」の車両信託は、SE車が日本国内で初めてである[155]。
記録達成
試験では輪重・車輪横圧・振動・走行抵抗・集電装置の離線・制動距離・風圧・ディスクブレーキの温度・電力消費量などの測定が行われることとなり[114]、測定機器は国鉄で使用している最新の機器が使用された[161]。風圧分布測定を行うためにSE車の正面10数箇所に1mm径の穴を開け[90]、そこからゴム管でマノメータに接続した[90]。また、車体表面の風圧については屋根に節型ピトー管を設置した[90]。また、架線の状態監視には国鉄の走行試験では初めて工業用テレビが使用された[161]。試験区間は、この当時に保線関係の新技術をテストする「モデル線」として整備されていた[162]藤沢から平塚までの下り線を使用することになった[163]。辻堂駅構内には渡り線の分岐器が存在した[163] が、輪重抜けの危険を考慮して試験前に撤去された[163]。
川崎車輛製の3011×8は同年8月8日に小田急線に入線したが、すぐには営業運行には入らず[8]、1957年9月19日に小田原から自力走行で東海道本線に入線し[164]、翌日の9月20日から試験が開始された[161]。初日は藤沢と平塚の間で日中に試験が行われ[44]、9月21日からは大船と平塚の間で深夜に速度試験が行われた[44]。試験では、最初は95km/hで走行し、その後5km/hずつ速度を高くしていった[162]。9月24日深夜には小田急線内での最高速度記録を超える130km/hを記録[20][注 22]、さらに9月26日午前3時34分30秒には、当時の狭軌鉄道における世界最高速度である143km/hを記録した[20][166]。この時には報道関係者も同乗しており[161]、朝日新聞や毎日新聞では9月26日の夕刊で「東京と大阪を結ぶ特急電車計画の見通しがついた」と報道している[167]。
しかし、SE車の設計最高速度は145km/hであり、試験の関係者は「一度は最高速度を出したい」と考えた[168]。このため、翌日の9月27日からは、試験の区間をさらに長い直線区間があり[162]、緩い下り勾配となっている函南と沼津の間に移し[168]、日中に試験が行われた[20]。この日は午前11時ごろから同区間を2往復試験走行した後に最高速度試験が開始された[169]。函南を午後1時50分に発車したSE車は三島を100km/hで通過した後も加速を続け[156]、午後1時57分に145km/hに達した[170]。この瞬間に、9月26日の記録を上回る、狭軌鉄道における世界最高速度記録が達成された[169][注 23]。この時、沼津で停止できなかった場合に備えて次の原[注 24] まで線路を空けており[172]、沼津では停止時に車両の横揺れがあってもプラットホームに接触しないように縁石を一部撤去していた[172] が、いずれも杞憂に終わっている[172]。
なお、9月26日までの走行試験のデータを検討した結果「150km/h程度までは問題ない」という結論に達していた[173] ことから、150km/hまで速度を上げようという意見もあった[173] が、石原の「日本の動力分散化の成否に関わっている問題であり、何か故障が起きたら困る。ここまで行けば十分成功」という考えにより[171]、150km/hでの走行試験は実施されずに終わっている[171]。
新幹線開発へ
この高速試験で得られたデータは、それまでの研究データの正確さを裏付けるものとなった[20]。車輪横圧はそれまでの車両では4tだったのに対して最大でも2.5tという結果となり[156]、脱線係数も小さかったために速度向上の余地が相当にあると判断された[156]。日本で初の採用事例となったディスクブレーキについては、145km/hから停止までのブレーキの距離は1,000mを超えていた[156] ものの、ブレーキ圧力を上げれば短縮可能と報告された[156]。一方、集電装置の離線率が高くなることについては今後の課題とされた[156]。これらのデータは、その後の車両・軌道・架線などの設計や保守に役立った[163]。
SE車の試験によって、三木の研究成果である「東京と大阪間を4時間半で結ぶ」という可能性は立証され[20]、「東海道本線を広軌や標準軌の別線にすれば最高速度250km/hも可能」との裏付けが作られた[18]。島は後年、この試験については「国鉄内部に対するプロパガンダであった」と述べており[151]、国鉄側の責任者だった石原も、この試験について「将来は新幹線のようなものを電車でできると思い、これの成否のもとになると考えていた」と述べ[171]、この高速試験が新幹線計画への布石だったことを認めている[171]。また、車体設計に携わった三木も、後年「飛行機の設計をいかに鉄道に応用するかを研究し、まずSE車を設計、それから新幹線の設計に取り組んだ」と述べ[174]、SE車が新幹線の先駆けとなった存在であることを認めている[174]。
国鉄内部で設置されていた「電車化調査委員会」において、SE車の速度試験と、翌月に行われた90系電車(後の101系電車)による速度試験の結果を踏まえ[175]、「軽量車両を使用することで、これまでの機関車牽引の特急では実現が困難だった高速サービスが可能」という検討結果がまとめられた[176]。これを受けて、1957年11月12日に東京と大阪の間に電車特急を走らせることが決定した[176]。この電車特急のために20系電車(後の151系→181系電車)の設計が開始され[151]、1959年には完成した151系を使用して新幹線開発のための速度試験とデータ収集が行われることになり[177]、その速度試験では、SE車の記録をさらに更新する163km/hの速度記録が打ち立てられた[177]。
その後、新幹線の開発は本格化し、1963年には新幹線のモデル線区間で256km/hの速度記録が樹立された[19]。三木は、そのモデル線区間での記録について「SE車の試験を元にした計算の通り」としている[19]。
こうした経緯もあり、SE車は「新幹線のルーツ」[18] や「超高速鉄道のパイオニア」[19] とも言われるようになった。
波及効果
小田急においては、世界最高速度記録がマスコミで大きく取り上げられたこともあり[156]、特急ロマンスカーの利用者数は急増することになった[156]。
また、鉄道友の会ではSE車の世界最高速度記録を契機として[178]、1958年より優秀な車両を表彰する制度としてブルーリボン賞を創設した[179] が、当時の鉄道友の会理事会がSE車を高く評価していたため[180]、SE車に対しては会員投票によることなく[180]、理事会の決定において第1回ブルーリボン賞が授与された[180]。
NSE車登場前後
速度試験は9月28日で終了し[44]、3011×8は小田急線内に戻り、10月1日から箱根特急の運用に投入された[44]。これによって、1700形は一般車に改造されることになった[181]。
1958年7月19日、3021×8が走行中にデハ3026の台車からディスクブレーキが脱落する不具合が発生[182]、この後8月7日までは編成を短縮した3021×5として運行した[182]。同年8月には全編成に対して付随車の車軸に設置されたディスクブレーキをツインディスク式に改造し[1]、あわせて台車のばねも交換された[1]。
1959年2月12日には増備車として3031×8が入線し[183]、同年2月28日から運行を開始した[183][注 25]。3031×8の導入によって、箱根特急は全てSE車で運用することが可能となり[109]、箱根特急のスピードアップが行われた[109]。このため、2300形は準特急車に格下げされることになった[184]。また、SE車はこの年から夏季に運行される江ノ島線の特急にも運用されるようになった[185] ほか、特殊急行「納涼ビール電車」にもSE車が使用された[186]。この時期、3031×8については座席の表地を茶色系のチェック模様に変更していた[7] が、1962年に他車と同様の青色系の表地に戻した[7]。また、この時期に座席の背ずり形状などの改修が行われた[7]。
一方、1958年以降には他の鉄道事業者で冷房装備の特急形電車の製造が行われていた[88] ことから、1961年にはSE車の冷房設置が計画された[1]。車体が軽量構造であることから屋根上への冷房搭載工事は車体や車軸の補強工事を伴うなど大改造となるため[1]、床置き式の冷房装置を搭載することになり[76]、1962年2月から設置工事が行われた[1]。搭載する冷房装置は冷凍能力9,000kcal/hのCBU-381形が採用され[26]、1両に2台ずつ搭載し[76]、冷房の設置箇所の側面にはよろい戸状の外気取入口が設けられた[26]。設置に際しては各車両とも2脚ずつ座席が撤去された[76] が、この時に撤去する座席はトイレ前や売店前・出入り口脇など[1]、乗客に好まれない座席を優先した[76]。この改造に伴い、各車両とも定員が4名減少し[1]、編成定員は316名となった[1]。冷房装置の新設に伴い、3号車と6号車に出力60kVAのCLG-326形電動発電機(MG)が増設された[26]。
なお、1961年にはシュリーレン台車を2400形(HE車)に振り替え[122]、SE車には住友金属工業で新しく新造した空気バネ台車を装着するという案もあり[122]、実際に試験も行われている[122] が、実現には至っていない[122]。
1963年には集電装置の摺り板がカーボンからブロイメット[注 26]に変更された[26]。また、1966年には列車無線が新設された[26]。
1963年には、時代に合わせて室内のデラックス化と冷房化を図る、全面展望を一層進化させるためイタリア国鉄の特急「セッテベッロ」のような構造にするという構想によって[189]NSE車が登場し[16]、その後1967年に箱根特急が全てNSE車で運用できるようになる[25] と、SE車は江ノ島線の特急「えのしま」や、1966年6月に新設された途中駅停車の特急「さがみ」に運用されるようになった[190]。
編成短縮
1968年に御殿場線が電化されることにともなって[24]、1955年からキハ5000形気動車により運行していた[190] 御殿場線直通の特別準急を電車に置き換えることになった[190]。新型電車を製造する案もあったが[191]、SE車を改造の上御殿場線直通列車に使用することにした[24]。SE車は耐用年数を10年として製造された車両で[9]、1968年の時点で既に10年を超えていたことから小田急の社内では反対の声があがったものの[191]、当時は国鉄の組合闘争の激しかった時期で[192]「NSE車が乗り入れてくれば反対する」という噂も聞こえ[192]、国鉄側も過敏になっていた[192] ことから、在来車の改造で対応することにした[191]。しかし、4編成では「えのしま」「さがみ」に加えて御殿場線直通の列車に使用するには編成数が不足する[190] ため、輸送力の適正化も考えて5両連接車×6編成に組み換えることとした[5]。
改造内容は、まず8両連接車の編成から3両を外した5両連接車を4編成組成し[5]、外した中間車を改造して5両連接車を2編成組成した[5]。不足する先頭車4両は中間車に同一形態の運転台を新設した[191]。台車の全数は電動台車24台・付随台車12台で変更されていない[193] が、編成中間の3号車は両端とも付随台車となる車両となるため[5]、新形式のサハ3000形となった[5]。御殿場線の連続勾配区間に対応させるため[24]、歯数比を80:19=4.21に変更し[24]、これによって低下する高速性能を補うために[5] 弱め界磁を3段から4段に変更[5]、最弱界磁率を50%から40%に変更した[5]。また、全ての台車について車輪径を840mmから860mmに変更した[26]。先頭形状は、愛称表示器をNSE車と同様の形態に変更し[5]、前照灯は愛称表示器の両側に移設した[5]。また、連結器設置がSE車の国鉄線へ乗り入れの条件とされた[136] ため、前面の連結器を電気連結器付密着連結器に変更し[26]、着脱式の連結器覆いを設置した[5]。トイレ・化粧室は2号車に[5]、喫茶カウンターは3号車に位置を揃えた[5] 上、喫茶カウンターの面積を拡大した[26]。保安装置については、国鉄のATS-S形を設置し[24]、先頭部に信号炎管を新設した[24]。冷房装置については屋根上設置に変更[24]、冷凍能力4,000kcal/hのCU-11形集約分散式冷房装置を先頭車に6台・中間車に5台設置した[26]。外部塗装デザインについても、NSEに準じたグレー部分の多い塗り分けに変更された[5]。
これらの改造は日本車輌製造蕨工場で行われた[5] が、この組成変更で32両中22両が改番され[24]、余剰となった2両は廃車となった[24][注 27]。
こうして、1968年7月1日からSE車は連絡準急行(1968年10月以降は連絡急行)「あさぎり」としても運用されるようになり[194]、編成が短くなったことから "Short Super Express" (略して「SSE車」)とも称されるようになった[25]。この年にはOM-ATS装置が設置された[5]。また、1972年には保安ブレーキ装置の設置が[26]、1973年には列車無線装置の更新が行われた[26]。
その後、SE車は「さがみ」「えのしま」「あさぎり」を中心に運用された[195]。NSE車の検査時にはSE車が箱根特急の運用に入り[196]、また、多客時には2編成を連結した「重連運転」が行われることもあった[196]。2編成を連結した場合、1号車から5号車が2両ずつになってしまう[196] ため、編成全体を「A号車」「B号車」と呼んで区別した[196]。1977年から1980年にかけて内装が更新された[26]。
しかし、1970年代に入り、もともと耐用年数を10年として製造された[197] SE車は老朽化が進んできたことから[197]、1976年からはSE車の後継車として新型特急車両の研究が開始され[197]、1980年にはLSE車が登場した[198]。LSE車の導入によって、NSE車が検査入場した場合にSE車を箱根特急に使用することによる輸送力不足は解消された[199]。
大井川鉄道への譲渡
その後、LSE車の増備が進んだことから1983年3月に3001×5が廃車された[24]。廃車された3001×5は動態保存車両として大井川鉄道(現・大井川鐵道)に譲渡されることになった[24]。
1983年4月15日付で大井川鉄道の車両として竣工[200]、電動車の記号が「デハ」から「モハ」に改められた以外はほぼそのままの状態で[201][注 28]、1983年8月よりロマンス急行「おおいがわ」として運行を開始した[201]。車内では緑茶のサービスも行われた[202] が、蒸気機関車牽引列車の「かわね路号」ほどの集客ができず[203]、1987年7月のダイヤ改正以降は運用から外れて休車となった[204]。その後まったく利用されないまま[204]、1992年3月に廃車となり[203]、1993年4月に解体された[203]。
運用終了まで
一方、小田急に残ったSE車も既に車齢25年を超えており[205]、継続使用に反対する社内意見もあり[205]、LSE車によって「あさぎり」に運用されているSE車を置き換える案もあった[206]。しかし、これも当時の国鉄側の現場の反応などを考慮して[206]、仕方なく継続使用することになった[205]。
このため、1984年から3011×5を除く4編成に対して車体修理が行われた[205]。外観上の変化は、側面窓を高さ650mm×幅680mmの固定窓に変更し[26]、連接部の外幌をLSE車と同様のウレタン芯形とした点である[26]。また、屋根上のクーラーキセを強化プラスチック(FRP)製に変更した[26]。室内については、一部の車両について座席表地をLSE車に準じたオレンジとイエローのツートーンとした[5] ほか、化粧板は木目調から皮絞り模様に[5]、天井板は白系のクロス模様に変更された[5]。また、客用扉に電動ロック装置が設置された[194]。
この時に車体修理対象から外れた3011×5については、他の4編成の更新が終了した後は後は運用には入らずに経堂検車区に留置された後[206]、1987年3月27日付で廃車された[2]。この編成は狭軌世界最高速度記録を樹立した車両であったこと[2] から、廃車後もしばらくは海老名検車区で保管されていた[2] が、車両増備に伴う留置線不足などの理由により[207]1989年5月に大野工場で解体され[208]、保存には至らなかった[207]。
残った4編成については、その後「あさぎり」を中心に使用されていたが、1987年に導入されたHiSE車が増備されたため[209]、1989年7月15日からはSE車の定期運用は「あさぎり」だけとなった[209]。
これより少し遡る1988年7月、小田急から東海旅客鉄道(JR東海)に対して、車齢30年を超えたSE車の置き換えを申し入れた[210]。これをきっかけとして両社の間で相互直通運転に関する協議が進められることになった[210]。この中で、2社がそれぞれ新型車両[注 29] を導入した上で相互直通運転に変更することとなり[211]、ようやくSE車の置き換えの方向性が見いだされた。
1990年年末にRSE車が入線し[212]、1991年に入ってからは通常の愛称板ではなく「さよなら運転」のタイトルが入った愛称板も用意された[212]。本格的な特急車両が格下げされずに運用から外れるのは小田急では事実上初めての事例であり[212]、多くの鉄道ファンが沿線で撮影する姿が見られた[212]。定期運用最終日である1991年3月15日の「あさぎり8号」は重連運用となり[212]、SE車の定期運用最後の列車となる「あさぎり8号」の到着を見届けるため[212]、新宿駅には多くの鉄道ファンが集まった[212]。
定期運用から離脱した後もしばらくは波動輸送用として残されていたが[212]、1992年3月にさよなら運転が行われた後に全車両が廃車となった[212]。さよなら運転がおこなわれた3月8日は、くしくも同日に新幹線初の大幅モデルチェンジである300系の試乗会もあり、新旧の節目と報じられた[213]。
耐用年数を10年として設計された車両であったが、山本の意志に反して35年弱もの長期間にわたって運用されたのである[9]。
注釈
- ^ 現在のJR西日本阪和線・羽衣支線。
- ^ 1933年11月運行開始の、紀勢線に直通する鉄道省制式客車を阪和電気鉄道の電動客車で牽引する南紀直通列車「黒潮号」と、同年12月運行開始の「超特急」での記録。いずれも阪和天王寺 - 東和歌山間ノンストップ運転であった。「黒潮号」は1937年12月1日のダイヤ改正で廃止、「超特急」は1940年12月1日に阪和電気鉄道が南海鉄道へ合併された際にも存続したが、1941年7月1日か同年12月1日のいずれかに実施されたダイヤ改正で廃止となり、この時点で阪和電気鉄道以来の阪和間45分運転は終了したと推定されている[34][35]。
- ^ 具体的には、「新宿から小田原までを60分で走ることによって、1編成が新宿と箱根湯本の間を往復するのに折り返し時間を含めたとしても180分で済み、箱根特急を60分間隔で運行する場合に必要な車両が3編成で済む。新宿から小田原まで60分以上かかると4編成が必要」というものであった[38]。
- ^ 例えば、輸送改善委員会が目標として想定した阪和電気鉄道は、輸入品の100ポンドレール(50 kg/mレール相当)を敷設し、十分な容量の変電所施設や架線設備を用意した上で、1時間定格出力200馬力級 (149.1 kW) 電動機を4基ずつ装架する自重53 t(基幹形式となる3扉ロングシート車であるモタ300形のメーカー実測値[40]。公称自重は47 t - 48.56 t)の超重量級車両を走らせて前述の記録を達成していた。また、阪和電気鉄道のモデルとなった新京阪鉄道も、軌間こそ異なるものの同様の車両・施設で、天神橋 - 京阪京都間42.4 kmを34分で走破する(表定速度74.8 km/h)超特急を同時期に運行していた。なお、同時代における小田急の車両とこれら関西私鉄で用いられていた重量級電車の重量差は公称値でも10 t以上、電動車の出力差は約300馬力に達した[40]。
- ^ 1800形で速度を上げて飛ばしたら、線路の犬釘が抜けてしまったこともあったという[41]。
- ^ しかし、当初は研究所生え抜きの研究者からことごとく否定され、倉庫のような研究室しかあてがわれていなかった[47][48]。
- ^ 島の部下だった星晃は「言葉は悪いが、島は山本の構想を利用したのではないか」と述べている[57] が、一方の山本は、1957年6月に行われた展示会での談話の中で、研究所の支援を受けられたことについて「将来国鉄でも役立つとの考えからであったと思う」と述べている[58]。
- ^ 研究会が行われた時間帯は、就業時間が終了した午後5時から午後8時までで、小田急の担当者はこの研究会を「夜学」と呼んでいた。研究会の一部に参加した生方良雄は「我々が考えてもいない発想をしていると思った。海軍出身の技術者から授業を受けているような雰囲気で、ずいぶん勉強になった」と述べている[59]。
- ^ a b 当時、経堂工場の建物の奥行きは67.5mしかなかった[70]。
- ^ a b 後年、生方良雄は「SE車の8両をよく狭い経堂工場で整備できたものだ」と感想を述べている[69]。
- ^ この時点で日本に存在した高速電気鉄道向け連接車は、1934年に登場した京阪60型、1942年に登場した西鉄500形、1952年に改造によって登場した名鉄2代目400形の3形式しかなく、いずれも2車体か3車体であった[74]。
- ^ 当時の日本で、外板にステンレス板を使用した車両は関門トンネル区間用の国鉄EF10形電気機関車しかなく、日本で初めて電車でステンレス外板を使用した東急5200系電車の登場も小田急SE車登場の翌年であった。日本において、鋼体全てがステンレス鋼というオールステンレス車両や、アルミ軽合金製車両の登場に至っては1960年代に入ってからであった。
- ^ 新幹線0系電車先頭部の形状抵抗係数は0.21である[90]。
- ^ 1700形・2300形の客用扉も、特急専用車だった頃は手動扉であった[96]。
- ^ 発電制動・空気制動を併用するという表記。
- ^ 「ハイスピードコントロール (High Speed Control) ・ダイナミックブレーキ (Dynamic Break) 付」の略である。
- ^ 従来の鉄道車両では側受に数ミリの隙間を設け、荷重の全てを原則的に心皿が負担する方式が用いられていた。しかし軽量化の観点からは、左右の枕ばねに近い側受で荷重を常時負担する方が揺れ枕など心皿周辺の各部材断面の縮小が図れて有利であった。
- ^ 2・3号車の間、4・5号車の間、6・7号車の間。
- ^ 山本利三郎は「経堂工場でSE車を見せたら、なかなか離れなかった」と回想している[140]。
- ^ 山本からの提案に対する島の答えは「やろうじゃないか」だったという[138]。
- ^ 国鉄時代、私鉄の車両が国鉄で走行試験を行ったのは、SE車以外には1982年に東海道本線でLSE車を使用した走行試験の事例があるのみである[158]。
- ^ それまでの国鉄線上での最高速度記録は、1954年12月にC62形蒸気機関車17号機が東海道本線木曽川橋梁上で記録した129km/hで[165]、この時のSE車の記録はC62形17号機の記録をも上回る。
- ^ 国鉄側の責任者だった石原は、沼津到着後に車両を点検する山本と三木の姿を「子供が入学試験に通った時のような顔をしていた」と回想している[171]。
- ^ 当時は片浜駅は未開業。
- ^ 竣功届は営業運行開始後の1959年3月2日提出であった[183]。
- ^ 銅粉末やグラファイトなどを混和焼結して形成される焼結銅合金の一種。日本粉末合金によって1949年に実用化された。カーボンと比較してトロリー線との接触抵抗が小さく熱伝導率も高いため、過大電流の通流時のトロリー線溶断事故抑止に有利という特徴がある[187][188]。
- ^ 台車の数が変わっていないため、廃車になった2両は車体のみの状態。
- ^ これは、小田急側が譲渡条件として提示したもの。大井川鉄道は当初3両連接に改造しての使用を考えていたが、先頭車両に乗客用扉の設置(改造)は小田急側が承服せず、3両連接では中間車の扉片側1箇所のみで営業列車に使用できないため、結局、5両連接のまま導入された。
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- ^ 一部車両の解体と今後の保存・展示について - 小田急電鉄 2018年4月27日(インターネットアーカイブ)
- ^ “KD18台車を展示しました。”. 近畿車輛 (2022年10月6日). 2022年11月17日閲覧。
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