小田急3000形電車 (初代)
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登場の経緯
小田急の目標
1948年6月1日に小田急が大東急から分離発足した際に取締役兼運輸担当として就任した[27]山本利三郎は、学生時代にその存在を知って以来連接車に関心を抱き[28]、スペインで開発された連接車であるタルゴの存在を知ってからは「あれを電車でやれないか」と考えていたという[28]。国鉄東京鉄道局に在籍していた1935年には、業務研究資料で「関節式新電車ニ就イテ」と題する構想を出した[29]。これは、「関節車(連接車)を導入することで騒音・動揺・乗り心地を改善した上で、先頭部を流線形にし、駆動方式も吊り掛け駆動方式から改良して騒音を低減した高速電車を東京と沼津の間で走らせる」という内容であった[30]。この発想は当時の国鉄ではまったく受け入れられなかったが[31]、山本はその後も連接車の導入に関心を持ちつづけ[27]、1948年冬には当時まだ新入社員であった生方良雄とともに[32]、当時既に連接車として運用されていた西日本鉄道500形[9] の構造や保守について視察した[32]。
一方、分離発足後の小田急では、戦争で疲弊した輸送施設の復旧と改善を主目的として[11] 設置された輸送改善委員会が[11]、「新宿と小田原を60分で結ぶ」という将来目標を設定した[11]。この目標値は、戦前に阪和電気鉄道[注 1] が阪和天王寺と東和歌山の間61.2kmを45分で結び[33][注 2]、表定速度は81.6 km/hに達していたことを意識したもの[33] で、この表定速度であれば、新宿と小田原の間82.8 km(当時)は60分で走破できると考えたのである[36]。大阪出身である山本は、日ごろから阪和電気鉄道を引き合いに出していたという[33]。この目標は、単に阪和電気鉄道の記録を破ることを目的にしていたわけではなく[33]、速度向上によって車両の回転率を高めることによって経営効率の向上を図ることも目的としていた[37][注 3]。
当時は「高速走行のためには大出力の主電動機を使用して、粘着性能を稼ぐために車体も重く頑丈にする」ということが常識とされていた[39][注 4]。しかし、この時の小田急の経営基盤はまだ脆弱で[11]、スピードアップを目的として施設全般に多額の投資を行うことはできなかった[11]。また、当時導入された国鉄モハ63形の改造車である1800形の乗り心地が悪く、保線部門から「線路を壊す車両」として嫌われたという事実もあった[41][注 5]。このため、軌道や変電所などの投資を極力抑える一方で[11]、車両の高速性能を向上するという方針が立てられた[11]。この方針に従い[11]、軽量・高性能な車両の開発が進められることとなり[11]、研究や試験などを繰り返していた[13]。
1954年に登場した2100形[42] では車体の軽量化が実現[43]、駆動方式についても同年に登場した2200形[13] ではカルダン駆動方式が実用化された[13]。また、この年の9月11日には新型特急車両の開発が正式に決定した[44]。
小田急と国鉄の共同開発へ
この頃、国鉄でも高速車両の研究を進めていた[13]。1946年には山本の友人である島秀雄が、日本海軍航空技術廠にいた三木忠直や松平精などを研究所に招き[45]、「高速台車振動研究会」を設立して研究を行った[45]。航空技術廠から研究所に移った研究者たちは航空機の技術を導入した鉄道の高速化を研究し[13]、台車の振動問題については、松平の研究によって解決策が見出されつつあった[46][注 6]。
それまでの研究所は、開発よりは試験を行うことが多い研究機関であったが[49]、1949年9月に大塚誠之が所長として着任すると[50]、大塚は研究者に自由な研究を奨励し、研究成果の発表も積極的に行うように指導した[49]。また、外部からの研究受託や設計も積極的に受けるようにした[50]。
この方針を受けて、1953年9月に三木が発表した研究成果の内容は「軽量で低重心の流線形車両であれば、狭軌においても最高160km/h・平均125km/hで走行が可能で、東京と大阪を4時間45分で結ぶことも可能である」というものであった[51]。ただし、この時の想定では、突起物を全て車体内部に取り込むという徹底的な空力設計を採用[52] する一方で、電車方式(動力分散方式)ではなく1,200馬力の電気機関車牽引による7両編成の客車列車(動力集中方式)とする構想であった[53]。
この構想は、国鉄本社から「これは本社が考えるべきことである」と批判を受けた[49] が、運輸省は逆に「研究補助金を出すので申請するように」と通告した[14]。そこで、日本鉄道車両工業協会で研究を受託するために「超高速車両委員会」が発足した[14]。研究を重ねた後の1954年9月には「全長100.9mの7両連接車、自重113.3t、電動機出力は110kWが8台、定員224名、最高速度は150km/h」を目標にした車両構想が打ち出された[14]。
山本はこの研究発表に着目し[14]、1954年10月19日に[54] 研究所に対して「特急車両として世界的水準を抜くものにしたい」[49] と、新型特急車両の企画・設計全般について技術指導を依頼した[46]。
小田急と国鉄は東京と小田原の間で旅客数を争うライバル関係にあり[55]、現実に国鉄80系電車運行に対して小田急が反対していた経緯もあるので[56]、この依頼は非常識にさえ見えた[46]。しかし、この当時、島は桜木町事故の後に国鉄を退職していたものの[46]、腹心の部下だった者を通じた影響力を行使できる立場にあった[46]。国鉄内部でも当時既に高速電車の計画はあったが[46]、大組織の国鉄ではなかなか理解が得られなかった[46]。島は「私鉄が導入して成功すれば、国鉄も高速電車の導入に踏み切るだろう」と考えた[46]。また、研究所側でも「小田急の構想に乗ることで研究成果の確認が可能になる」と考えた[13][注 7]。研究所では小田急の要請に全面的に応じることとし[49]、1954年10月25日から[54] 研究所が小田急の研究を受託するという形式で[13] 新型特急車両の共同開発が開始された[13]。
基本構想
基本構想の策定を行う研究会は、1954年11月から1955年1月までに合計8回行われた[59][注 8]。1955年1月25日には基本構想が策定された[13] が、この時点では小田急の最長編成は17m車4両編成であったことから[60]、全長70mの5両連接車という内容であった[54]。1955年1月16日には[54] 共同設計者として日本車輌製造・川崎車輛(当時)・近畿車輛・東洋電機製造・東京芝浦電気(当時)・三菱電機が参画し[61]、研究所の指導の下に具体的な設計に入った[61]。小田急では創業当時から電装品は三菱電機[62]、台車は住友金属工業の製品を採用しており[62]、特に三菱グループとは主力取引銀行としての関係もあった[63] が、新型特急車両の設計参画メーカーの決定に際しては純粋に技術的見地から決定され[64]、どうしても優劣がつけがたく決定できない場合に限って[64]、過去の小田急との取引を考慮して決定した[64]。
山本は「1gでも軽い部品を採用する」と公言し[65]、1mあたりの重量を1tとすることを目標として[61]、軽量車両で安全に走行するための条件が徹底的に追及された[15] ほか、将来の格下げを考えずにあくまで特急専用として考えられた[15]。さらに、「特急車は10年もすれば陳腐化する」「丈夫に長く使える車両と考えるから鉄道車両の進歩が遅れる」という山本の考え[9] により、耐用年数は10年と考えることになった[9]。
前頭部の形状の決定に際して、東京大学航空研究所の風洞を使用して[66]、日本の鉄道車両設計の歴史上初めて[66] となる本格的な風洞実験が行われた[66] ほか、ディスクブレーキの試験も行われた[67]。また、高速運転に伴って踏切事故などを防止するために補助警報器(特殊警笛)の現車試験なども行われた[67]。
また、前述の通り、連接車に強い関心を抱いていた[27] 山本の主張によって、新型特急車両には連接構造が採用されることになった[66]。三木は連接車に賛成していた[32] が、研究所では保守上の不便を心配していたという[61]。しかし、山本は「保守・整備は小田急が考えればいい話」と主張し[68]、連接車導入と決まった。この時期の経堂工場は、17.5m車の4両編成すらもまとめて入庫できるような設備ではなかった[69][注 9]ので、小田急社内でも連接車の整備については「経堂工場で整備できるか自信が持てない」という意見があったという[64][注 10]。
開発の停滞と再開
構想の練り上げと並行して、小田急の社内での意見をまとめた上で設計に反映させるため[71]、社内に車両委員会が設置された[71]。
しかし、それまでの小田急の車両からは飛躍的に突出した構想であったことから[71]、社内の意見をまとめるのに難航した[4]。運転席を低くしたために[4] 運転部門からは「踏切事故の際に運転士の危険度が高い」[4]「運転台からの見通しが悪すぎる」[72] という意見が、また客室床面が低いために[4] 営業部門からは「座席の乗客がホームから見下ろされるためサービス上問題」[4] という意見があったという。必死に説得を続けたものの[72]、「そんな突拍子もない車両は使えない」という運転部門からの反発は大きく[72]、ついに1955年秋には検討を一時棚上げするという事態になった[4]。
ところが、半年後の1956年3月[4]、新宿から貨物線経由で小田原や伊豆方面に向かう準急列車「天城」の運行が国鉄から発表された[4]。この列車の運行によって、小田急の観光輸送への大きな影響が予想されたため[4]、社内は「これに対抗しうる画期的な新特急車の製作を急ぐべし」との意見に統一され[4]、開発は再開された[73]。
1956年5月には仕様が決定し[71]、同年6月末から製作が開始されることになった[71]。当初は前述の通り全長70mの5両連接車で計画されていたが[44]、1957年5月から小田急で全長105mの6両編成による運転が開始されることになっていたため[60]、1956年5月7日に全長108mの8両連接車に計画が変更された[54]。経験・実績に乏しい方式だった[注 11]にもかかわらず8両連接車を採用したのは[21]、当時としては大英断であったと評されている[21]。運転台を2階に上げて展望席を設置する案[75] や、二等車等の優等車両を設ける案もあったが[44]、最終的にはこれらの案は採用されなかった[44]。
車両の調達に際しては、小田急・日本車輌製造・川崎車輛・住友信託銀行の4社で車両信託制度という新しい制度が設けられた[3]。これはアメリカ合衆国のフィラデルフィアプランと呼ばれる制度に倣ったもので[3]、新型特急車両は日本で初めて車両信託制度が適用された車両となった[3]。
こうして、「画期的な軽量高性能新特急車」として登場したのがSE車である。
注釈
- ^ 現在のJR西日本阪和線・羽衣支線。
- ^ 1933年11月運行開始の、紀勢線に直通する鉄道省制式客車を阪和電気鉄道の電動客車で牽引する南紀直通列車「黒潮号」と、同年12月運行開始の「超特急」での記録。いずれも阪和天王寺 - 東和歌山間ノンストップ運転であった。「黒潮号」は1937年12月1日のダイヤ改正で廃止、「超特急」は1940年12月1日に阪和電気鉄道が南海鉄道へ合併された際にも存続したが、1941年7月1日か同年12月1日のいずれかに実施されたダイヤ改正で廃止となり、この時点で阪和電気鉄道以来の阪和間45分運転は終了したと推定されている[34][35]。
- ^ 具体的には、「新宿から小田原までを60分で走ることによって、1編成が新宿と箱根湯本の間を往復するのに折り返し時間を含めたとしても180分で済み、箱根特急を60分間隔で運行する場合に必要な車両が3編成で済む。新宿から小田原まで60分以上かかると4編成が必要」というものであった[38]。
- ^ 例えば、輸送改善委員会が目標として想定した阪和電気鉄道は、輸入品の100ポンドレール(50 kg/mレール相当)を敷設し、十分な容量の変電所施設や架線設備を用意した上で、1時間定格出力200馬力級 (149.1 kW) 電動機を4基ずつ装架する自重53 t(基幹形式となる3扉ロングシート車であるモタ300形のメーカー実測値[40]。公称自重は47 t - 48.56 t)の超重量級車両を走らせて前述の記録を達成していた。また、阪和電気鉄道のモデルとなった新京阪鉄道も、軌間こそ異なるものの同様の車両・施設で、天神橋 - 京阪京都間42.4 kmを34分で走破する(表定速度74.8 km/h)超特急を同時期に運行していた。なお、同時代における小田急の車両とこれら関西私鉄で用いられていた重量級電車の重量差は公称値でも10 t以上、電動車の出力差は約300馬力に達した[40]。
- ^ 1800形で速度を上げて飛ばしたら、線路の犬釘が抜けてしまったこともあったという[41]。
- ^ しかし、当初は研究所生え抜きの研究者からことごとく否定され、倉庫のような研究室しかあてがわれていなかった[47][48]。
- ^ 島の部下だった星晃は「言葉は悪いが、島は山本の構想を利用したのではないか」と述べている[57] が、一方の山本は、1957年6月に行われた展示会での談話の中で、研究所の支援を受けられたことについて「将来国鉄でも役立つとの考えからであったと思う」と述べている[58]。
- ^ 研究会が行われた時間帯は、就業時間が終了した午後5時から午後8時までで、小田急の担当者はこの研究会を「夜学」と呼んでいた。研究会の一部に参加した生方良雄は「我々が考えてもいない発想をしていると思った。海軍出身の技術者から授業を受けているような雰囲気で、ずいぶん勉強になった」と述べている[59]。
- ^ a b 当時、経堂工場の建物の奥行きは67.5mしかなかった[70]。
- ^ a b 後年、生方良雄は「SE車の8両をよく狭い経堂工場で整備できたものだ」と感想を述べている[69]。
- ^ この時点で日本に存在した高速電気鉄道向け連接車は、1934年に登場した京阪60型、1942年に登場した西鉄500形、1952年に改造によって登場した名鉄2代目400形の3形式しかなく、いずれも2車体か3車体であった[74]。
- ^ 当時の日本で、外板にステンレス板を使用した車両は関門トンネル区間用の国鉄EF10形電気機関車しかなく、日本で初めて電車でステンレス外板を使用した東急5200系電車の登場も小田急SE車登場の翌年であった。日本において、鋼体全てがステンレス鋼というオールステンレス車両や、アルミ軽合金製車両の登場に至っては1960年代に入ってからであった。
- ^ 新幹線0系電車先頭部の形状抵抗係数は0.21である[90]。
- ^ 1700形・2300形の客用扉も、特急専用車だった頃は手動扉であった[96]。
- ^ 発電制動・空気制動を併用するという表記。
- ^ 「ハイスピードコントロール (High Speed Control) ・ダイナミックブレーキ (Dynamic Break) 付」の略である。
- ^ 従来の鉄道車両では側受に数ミリの隙間を設け、荷重の全てを原則的に心皿が負担する方式が用いられていた。しかし軽量化の観点からは、左右の枕ばねに近い側受で荷重を常時負担する方が揺れ枕など心皿周辺の各部材断面の縮小が図れて有利であった。
- ^ 2・3号車の間、4・5号車の間、6・7号車の間。
- ^ 山本利三郎は「経堂工場でSE車を見せたら、なかなか離れなかった」と回想している[140]。
- ^ 山本からの提案に対する島の答えは「やろうじゃないか」だったという[138]。
- ^ 国鉄時代、私鉄の車両が国鉄で走行試験を行ったのは、SE車以外には1982年に東海道本線でLSE車を使用した走行試験の事例があるのみである[158]。
- ^ それまでの国鉄線上での最高速度記録は、1954年12月にC62形蒸気機関車17号機が東海道本線木曽川橋梁上で記録した129km/hで[165]、この時のSE車の記録はC62形17号機の記録をも上回る。
- ^ 国鉄側の責任者だった石原は、沼津到着後に車両を点検する山本と三木の姿を「子供が入学試験に通った時のような顔をしていた」と回想している[171]。
- ^ 当時は片浜駅は未開業。
- ^ 竣功届は営業運行開始後の1959年3月2日提出であった[183]。
- ^ 銅粉末やグラファイトなどを混和焼結して形成される焼結銅合金の一種。日本粉末合金によって1949年に実用化された。カーボンと比較してトロリー線との接触抵抗が小さく熱伝導率も高いため、過大電流の通流時のトロリー線溶断事故抑止に有利という特徴がある[187][188]。
- ^ 台車の数が変わっていないため、廃車になった2両は車体のみの状態。
- ^ これは、小田急側が譲渡条件として提示したもの。大井川鉄道は当初3両連接に改造しての使用を考えていたが、先頭車両に乗客用扉の設置(改造)は小田急側が承服せず、3両連接では中間車の扉片側1箇所のみで営業列車に使用できないため、結局、5両連接のまま導入された。
- ^ JR東海371系電車とRSE車。
出典
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- 小田急3000形電車 (初代)のページへのリンク