小田急3000形電車 (初代)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/10 13:38 UTC 版)
車両概説
本節では、登場当時の仕様を基本として、増備途上での変更点を個別に記述する。更新による変更については沿革で後述する。
SE車は8両連接の固定編成で[76]、先頭車が制御電動車、中間車は全て電動車で、形式はいずれもデハ3000形である[77]。編成については、巻末の編成表を参照のこと。なお、閑散期には5両連接車としての運用も可能[11] で、この場合は1・2・3・7・8号車の5両か[11]、1・2・6・7・8号車の5両のいずれかとなる[11] が、5両連接車とした場合は3両目が両側とも電動機を装着しない付随台車となる[11]。ただし、ほとんど編成短縮の機会がない[78] ことから、回路の簡略化を図るため[78]、1959年3月に製造された編成(3031×8)では永久8両連接の回路設定とした[78]。それまでの日本の連接車では車体数に関わらず1編成単位で1つの車両番号であった[44] が、SE車では車体ごとに車両番号を附番している[78]。
車体
車体については、日本車輌・川崎車輛が担当することになり[61]、研究所側は三木が主任担当者となった[51]。
先頭車は車体長15,750mm[13]・全長15,950mm[79]、中間車は車体長12,300mm[13][80]・全長12,700mm[79]で、車体幅は2,800mm[61]である。
構体
それまでの特急車両では、格下げを考慮して[81] 車体の強度を定員の250%の荷重として計算していた[11]が、SE車では将来の格下げは考えず[81]、定員の130%として荷重を計算した[78]上で航空機の技術を取り入れ[61]、各部にわたって徹底的な軽量化を図った[11]。
車体構造は強度部材の軽量化のために張殻構造とし[82]、車体外板はそれまでの車両よりも半分近い厚さ1.2mm[61] の耐蝕鋼板を採用し[61]、バックリング防止のため[83] 125mm間隔でリブを入れることによって強度を補う構造とした[11]。この耐蝕鋼板は日本鋼管に開発を依頼した[84] もので、銅とリンを加えたものである[84]。当初計画では車体に軽合金を使用する予定であった[49] が、車両メーカー側で軽合金車両の製造経験がなかったこと[49][注 12] と、価格が高いという理由により[49] 鋼板を使用している。
車体断面は下部を半径4,000mmの緩いカーブで絞り込み[61]、側面上部を4度の傾斜角で内傾させた形状とすることで[61]、横風に対する安定度を確保し[61]、風圧の影響を減少させることを図った[61]。低重心化のため台車間の床面を低くし[61]、軌条上面から床面までの寸法は、台車の上では1,000mm[85] で車体中央部では875mmとなった[85][86]。台枠部は航空機の主翼構造を応用し[84]、それまでの鉄道車両には存在した中梁を廃した[84] 上で、波板が縦方向の圧縮強度も担うようにした[84] ほか、横方向の梁には航空機と同様に重量軽減孔を開けることで軽量化を図った[84]。床板にも航空機の技術を応用し[87]、ハニカム構造が採用された[61]。
こうした工夫の結果、構体重量は従来車が1mあたり500kgだった[11] ものが、SE車では1mあたり370kgにまで軽量化され[11]、2300形が全長70mの4両編成で135t(1mあたり1.93t)であった[88] のに対して、SE車では全長108mの8両連接車でありながら147t(1mあたり1.36t)[88] と、大幅な軽量化を実現した[88]。
なお、製造時にはそれまでの鉄道車両ではあまり行われていなかった[89] 荷重試験が行われ[89]、構体の175箇所に対して[89] ねじれや圧縮などの力を加えた測定が行われた[89]。荷重試験については、島も「国鉄車両の車体構造の設計に役立った」と評価しており[89]、これ以後は国鉄・私鉄を問わず、新設計の車両では必ず荷重試験が行われるようになった[89]。
先頭部
先頭部の形状は流線形で[11]、模型を作成した上で風洞実験を繰り返し[11]、さらにその結果を基にしてモックアップ(実物大模型)を作成した[11] 上で細部に検討を加えて決定された[11]。これにより、形状抵抗係数は国鉄80系電車の0.64に対して[90]、SE車では0.25にまで減少した[90][注 13]。本来はもう少し上部を絞り込めば空気抵抗が減少するところだった[91] が、当時の日本のガラス製造技術では円錐曲面のガラスが製造できず[91]、円筒曲面ガラスを使用することを前提とした形状になった[91]。
前照灯は日本の鉄道車両では初めてシールドビームが採用された[83] が、当時はまだ鉄道車両用のシールドビームが開発されていなかった[17] ため、自動車用の24V仕様のものを使用した[17]。前照灯の配置は空気抵抗から流線形の頂点に配置するようにしたこと[92] と、左右に分けた場合には「1灯が故障した時に列車の位置が分からなくなる」という理由によって[92]、2灯を前面中央部に並べた[92]。また、対向する列車の運転士にとっては眩し過ぎることから[92]、運転席には足踏み式減光スイッチを設けている[92]。先頭部には異常時に使用する格納式簡易連結器が収納された[11]。
また、先頭下部には車両が空力的に浮き上がらないように[93]、排障器も兼ねたスカートが設置された[94]。3031×8では正面のスカートの開口部が楕円形から真円形に変更されたのが外観上の識別点である[95]。
その他車体構造
側面客用扉は車体断面に合わせた[11] 高さ1,770mm・幅800mmの手動式[注 14]内開き戸[79] を中間車に1箇所ずつ配置した。扉を内開き戸にしたのは車体を極力平滑にするためで[97]、当時まだプラグドアという発想はなく[98]、航空機と同様の扉を採用すると却って重量が嵩む[98] ことから、この構造が採用された。側面窓は700mm四方の1段上昇窓を、窓柱の幅を300mmとして配置した[79]。乗務員室の扉は高さ1,400mm・幅600mmである[79]。車両間の貫通路は車内の見通しを良くする目的で広幅とし[11]、仕切り扉は一切設けていない[11]。
屋根はファンデリアの外気取り入れ口を設けた二重構造とし[11]、先頭車の最前部には補助警報器のスピーカーを内蔵させた[78]。
塗装デザインについては、「それまでの車両と同じ色で」という意見もあった[99] が、「まったく新しい電車なのだから新しい色にすべきだ」と決まり[100]、小田急の宣伝ポスター作成を手がけたこともある縁で[91]、二紀会の宮永岳彦が色彩設計を担当[20]、バーミリオンオレンジ■を基調にホワイト □・グレー■の帯が入る[20]、警戒色となるような明るい色とした[1]。このデザインは、その後NSE車・LSE車にも継承され[101]、バーミリオンオレンジについてはVSE車・MSE車・EXEα車・GSE車にも継承された[101]。
内装
車体の節で記述したように車体中央部を低床化しているが、台車上と車両中央部の床の高さの差は客室両端部の通路に傾斜をつけて解決した[102]。座席については、回転式クロスシートを採用し[11]、シートピッチ1,000mmで配置した[79]。この座席は、当時日本航空で運航されていたDC-4型旅客機の座席を参考にし[90]、ねじの頭を削るなど細かいところまで重量軽減にこだわった[103]。軽量化を優先したためリクライニング機構の導入は見送られた[104] ものの、それまでの同種の座席の重量が60kgだったところを33kgにまで軽量化した[90]。座席の回転方法は座席下のペダルを踏み込んでから回転させる方式である[105]。ただし、車端部の座席はスペースに余裕がないことから回転しない[106]。床に段差があることから、段差の上段になる座席では床面から座面の上面までを340mmに[107]、それ以外の座席では床面から座面の上面までを400mmとして[107]、着座位置を極力揃えるようにしている[106]。窓の下には各座席ごとに引き出して使用する折畳みテーブルを設置した[108]。
室内の配色は、天井を白[109]、壁面は明るい色のデコラ張りとして[109]、窓上カーテンキセ上部に赤い帯を入れた[109]。座席は濃い青色の表地を採用した[109]。
3号車の新宿寄り海側出入台脇と6号車の小田原寄り海側出入台脇には喫茶カウンター(売店)を設置した[11]。2号車の新宿寄り海側出入台脇と7号車の小田原寄り海側出入台脇には男女共用和式トイレ・化粧室を配置した[11]。喫茶カウンター・トイレとも、通路を挟んだ反対側は通常の座席である。
客室と乗務員室の仕切り扉は両ヒンジ式で[110]、左右どちら側にでも開けるようにした[110]。これは、乗務員から緊急時の脱出について意見があったため[110] で、運転士が使用する際には乗務員室側から見て左ヒンジ[110]、車掌が使用する際には右ヒンジとして開閉できるようにした[110]。
主要機器
床下機器配置は、重心の低下を図ったため[111]、それまでの車両での機器配置とは大きく異なるものになった[111]。
速度制御機器
主電動機と駆動装置は既に中空軸平行カルダン駆動方式で実績のある東洋電機製造が[61]、制御装置は電機メーカー各社の設計入札を行った結果[61] 超多段制御方式では最軽量となった東京芝浦電気(東芝)が[61]、制動装置(ブレーキ)は小田急において採用実績のある三菱電機が[61]、それぞれ担当した。
主電動機は出力100kW(端子電圧375V・定格回転数1,800rpm・最弱界磁率50%)の直流直巻補極付電動機である[1] 東洋電機製造のTDK806/1-A形で[1]、定格速度が高く[112]、高速域からの発電制動を十分に作用させることが可能な特徴を有する[112]。箱根登山鉄道(現・小田急箱根)鉄道線での上り勾配低速運転に対応するため[1]、冷却方式は強制通風式となっている[1]。駆動装置は中空軸平行カルダン駆動方式の東洋電機製造製DND143-SH9921形である[3]。歯数比は78:21=3.71とした[1]。主電動機の最大回転数は4,320rpmで[113]、東洋電機製造では「理論上は4,300rpmで180km/hの速度が可能である」と述べている[113]。
主制御器は、発電制動付電動カム軸式抵抗制御装置であるMM-50A形で[1]、2・5・7号車に搭載された[114]。特急車両であることから起動回数が少なく[112]、起動時の損失以上に回路の簡略化が図れる[1] ことから、直並列制御は行わずに抵抗制御及び界磁制御を行う仕様で[1]、1台で4つの主電動機の制御を行い(1C4M)[1]、主回路接続は4つの電動機を全て直列に接続する方式(永久4S)である[112]。また、全ての主制御器を直列に接続することにより、これを1台の制御器とみなした上で、その「みなし制御器」により12個の主電動機の制御をおこなうことも可能である[1]。制御段数は力行が抵抗制御14段・界磁制御3段[1]、制動は全界磁抵抗制御による14段である[1] が、起動時のショックを防ぐために「捨てノッチ」と呼ばれる低速段が5段設定された[112]。軌条面との空間を確保するため[115]、通常はレールと並行に機器を配置するところを枕木と並行に配置し[115]、台枠横梁の間に機器箱を押し上げた状態で搭載している[115]。
ブレーキは、電空併用[注 15] のHSC-D形[注 16]電磁直通ブレーキで[1]、ブレーキ初速125km/hから600m以内に停車することが可能である[1]。ブレーキ装置についても軽量化が図られ[112]、通常は電動車と付随車の平均で800kgとなるところ[112]、SE車では500kgに抑えている[112]。基礎ブレーキ装置は電動台車がクラスプ式(両抱え式)踏面ブレーキ[116]、付随台車ではシングルディスク式ディスクブレーキである[116]。ディスクブレーキについては研究所から「最高運転速度を上げるためにはディスクブレーキを使うべし」と強い主張があった[102] ために採用された[102] が、これも航空機で採用されていた技術からのもので[90]、ディスクブレーキは日本の鉄道車両では初の採用事例である[17]。なお、設計段階では空力ブレーキも検討されていた[90] が、150km/h以下では効果が少ないため採用には至っていない[90]。
主抵抗器は特殊リボン抵抗体を使用した強制通風式とした[1]。
台車
曲線の多い小田急線の軌道条件から[61]、「曲線通過を容易にできる」[61]「オーバーハング部分をなくした上で乗り心地を改善できる」[61]「車体支持間隔の短縮により車体剛性を確保できる」[61]「台車配置が平均化されることによって軌道への負担が軽減される」[61] という利点を考慮し、各車体の連結部直下に台車の回転を支える心皿を置く、連接構造が採用された[61]。このため台車数は1編成8車体で9台、5車体で6台となっている。
通常のボギー車では台車と車体を結ぶ配線の接続の端子として「つなぎ箱」と呼ばれる機器を車体側に設けている[115] が、SE車では「つなぎ箱」を台車側に設置し[115]、台車と車体を結ぶ配線の接続だけではなく[115]、車両間の引き通し線もこの「つなぎ箱」を経由することとした[115]。この後、NSE車・LSE車・HiSE車・VSE車でも連接構造が採用され[117]、小田急の特急車両の大きな特徴となった[21]。
台車そのものは、振動特性の研究結果から円筒案内式(シュリーレン)台車が松平より推奨された[98][86]。このため、軽量化を目的としてこの方式を採用することになり[93]、開発元のスイス車両エレベーター製造(SWS)社と技術提携しシュリーレン台車の設計製造を行っていた近畿車輛が設計製造を担当することとなった[61]。
近畿車輛のシュリーレン台車は、本形式の設計時点では1954年に近畿日本鉄道(近鉄)大阪線向けWNドライブ試作車のモ1450形モ1451用KD6・モ1452用KD7、それに同名古屋線向け直角カルダン試作車のモニ6211用KD8の3種が試作された[118] 後、同じ1954年に製作された西日本鉄道のカルダン駆動試験車である100形モ103・モ106用KD9[119] および奈良電気鉄道の特急車であるデハボ1200形用KD10[119] を皮切りに、親会社の近鉄をはじめ近畿車輛が車両を納品していた私鉄各社への納入が開始されたばかりであった。
本形式に採用された台車は、KD17(電動台車。軸距2,200mm)[116] とKD18(付随台車。軸距2,000mm)[116] の2種で、いずれも車輪径840mm、枕ばねをコイルばねとする金属ばね台車である[116]。これらは各台車の重量を3t台に収めることを目標として設計された[113]。保守が容易で磨耗部分が少ないシュリーレン台車の特徴を生かし[113]、6つに分けられた溶接鋼板の組み立てによる箱型とする[113] などの設計の工夫によりKD17は3.8t、KD18は3.6tに重量を抑えた[113]。また、SE車では定員の130%として荷重を計算した[78] ことからばね定数を低く設定し、各ばねを柔らかくすることが可能になった[78]。なお、各台車の荷重は心皿と左右の側受でそれぞれ50パーセントずつ負担する[113] 3点支持方式[注 17][120] が採用されている。また、付随台車であるKD18は編成の連接部3箇所[121][注 18] に装着されている。
しかし、このKD17・KD18は揺れ枕を吊り下げるスイングハンガー(吊りリンク)が短いため左右剛性が硬く[122]、また揺動周期も短くなるため高速域での左右振動性能に難があったという[122]。この時期の近畿車輛製シュリーレン台車は短リンク式と称する、揺れ枕の横動を許容するためにスイングハンガーをリンク長の短いユニバーサルリンク(自在吊りリンク)[123] とした機構を1956年設計の近鉄800系用KD12で採用しており[124]、本形式の装着するKD17・KD18もこれに準じる。もっとも、この設計は翌1958年に設計された近鉄名古屋線用特急車の6431系が装着したKD28・KD28Aで横動を重視して吊りリンク長を長くした長リンク式が実用化され、さらに枕ばねにベローズ式空気ばねの採用が開始されたことで飛躍的な揺動特性の改善が実現した[125] ため、極めて短期間で著しく陳腐化する結果となった。
空調装置
空調装置は、実車完成までに解決できなかった問題である[61]。
当時、既に他の鉄道事業者においては冷房装置が搭載された車両は存在したが、鉄道車両向けで小型軽量のユニット式冷房装置はまだ開発されておらず、冷凍機を使用した本格的な冷房は重量の問題で搭載が難しいという理由により、研究所からは氷式冷房装置が提案された[61]。これは車両に氷を大量に積載した上で、客室内の空気を通すことで熱交換するものであった[61] が、業者に確認してみると小田原で大量の氷を確保することは困難であった[65] ことから、設計に至らなかった[65]。また、車両側面からパイプで新鮮な外気を取り入れる方法も検討された[61] が、車体表面近くでは相対的な速度が小さく[61]、パイプを伸ばせば車両限界に抵触する[61] ため、これも実現しなかった[126]。
開発に携わった山村秀幸(元小田急電鉄副社長)は最後まで冷房搭載にこだわっていた[126] が、結局、重量面の問題もあり[58]、冷房装置の搭載は座席定員を削減しなければ実現できないと判断され[127]、運転時間が短いこともあって[58]、当面は直径16インチのファンデリア[108] を先頭車に6台・中間車に5台設置することになった[128]。
補助警報装置
補助警報音については、「アメリカや満鉄の機関車が鐘を鳴らして走るのは、驚かすためではなく、遠くから列車の進来を知らせる、いわば"良い"汽笛である」ということから[129]、これをさらに音楽的にしようではないかと研究されたものであり[129]、「警報装置としての条件を満足させる」という運輸省の要求[71] と、「騒音公害にならないように」と要求する警視庁の要望[71] を両立させるため、小田急沿線在住の音楽家である黛敏郎にも相談[130]、音響心理学研究所の指導を得た上で[130]ビブラフォンの音色とし[130]、2km付近まで達する音量とした[131]。補助警報音を発する装置は、乗務員室内に設けられた再生装置[78] によってエンドレステープを再生し[78]、屋根上に設置した指向性の強いスピーカー[78] から放送する仕組みである[78][129]。しかし、営業運行後にエンドレステープが伸びたり切れてしまうことが多かった[132] ため、NSE車以降はトランジスタ発振器に変更された[133]。
この補助警報音は、SE車が「オルゴール電車」と呼ばれる由来となった[134]。その後、RSE車まで警笛とは別に補助警報装置が搭載された[135]。その後、VSE車では警笛と共用のミュージックホーンとして復活している[135]。
その他機器
乗務員室は前後方向に2,450mmとなっており[79]、計器板から客室との仕切りの間は1,570mmである[79]。前面計器板上には、万一の事故で正面ガラスが割れた際に運転士を守るために[136] 防弾ガラスを設置した[136]。また、前面下のスカートの開口部からダクトを通じて乗務員室内に外気を導入する構造とした[108]。
集電装置(パンタグラフ)についても、「重くて丈夫なもので、ばねをたくさんつけて架線に圧着させる」という考えがそれまでの常識であった[137] が、研究所の「パンタグラフは軽くなくてはいけない。追従性を増すにはばねを柔らかくすることで解決可能」という意見により軽量化が図られた[137]。パンタグラフは付加抵抗が20%増にもなる[90] ため、境界層の厚くなる列車の中央部に近づけた[90] 結果、2号車の屋根上新宿側車端部と7号車の屋根上小田原側車端部に[114]、高速運転時の追従性を向上させた東洋電機製造PT42-K菱枠パンタグラフを各1基ずつ設置した[76]。
補助電源装置については、二相交流6kVA・直流35kWの複流式電動発電機(MG)であるCLG-314形[1] と、三相交流18kVAのMGであるCLG-315形[1] をそれぞれ2台ずつ採用[1]、両先頭車に各1台ずつ搭載した[114]。
電動空気圧縮機(CP)は、低床化に対応したM-20-D形を採用[1]、1・3・6・8号車に搭載した[114]。
注釈
- ^ 現在のJR西日本阪和線・羽衣支線。
- ^ 1933年11月運行開始の、紀勢線に直通する鉄道省制式客車を阪和電気鉄道の電動客車で牽引する南紀直通列車「黒潮号」と、同年12月運行開始の「超特急」での記録。いずれも阪和天王寺 - 東和歌山間ノンストップ運転であった。「黒潮号」は1937年12月1日のダイヤ改正で廃止、「超特急」は1940年12月1日に阪和電気鉄道が南海鉄道へ合併された際にも存続したが、1941年7月1日か同年12月1日のいずれかに実施されたダイヤ改正で廃止となり、この時点で阪和電気鉄道以来の阪和間45分運転は終了したと推定されている[34][35]。
- ^ 具体的には、「新宿から小田原までを60分で走ることによって、1編成が新宿と箱根湯本の間を往復するのに折り返し時間を含めたとしても180分で済み、箱根特急を60分間隔で運行する場合に必要な車両が3編成で済む。新宿から小田原まで60分以上かかると4編成が必要」というものであった[38]。
- ^ 例えば、輸送改善委員会が目標として想定した阪和電気鉄道は、輸入品の100ポンドレール(50 kg/mレール相当)を敷設し、十分な容量の変電所施設や架線設備を用意した上で、1時間定格出力200馬力級 (149.1 kW) 電動機を4基ずつ装架する自重53 t(基幹形式となる3扉ロングシート車であるモタ300形のメーカー実測値[40]。公称自重は47 t - 48.56 t)の超重量級車両を走らせて前述の記録を達成していた。また、阪和電気鉄道のモデルとなった新京阪鉄道も、軌間こそ異なるものの同様の車両・施設で、天神橋 - 京阪京都間42.4 kmを34分で走破する(表定速度74.8 km/h)超特急を同時期に運行していた。なお、同時代における小田急の車両とこれら関西私鉄で用いられていた重量級電車の重量差は公称値でも10 t以上、電動車の出力差は約300馬力に達した[40]。
- ^ 1800形で速度を上げて飛ばしたら、線路の犬釘が抜けてしまったこともあったという[41]。
- ^ しかし、当初は研究所生え抜きの研究者からことごとく否定され、倉庫のような研究室しかあてがわれていなかった[47][48]。
- ^ 島の部下だった星晃は「言葉は悪いが、島は山本の構想を利用したのではないか」と述べている[57] が、一方の山本は、1957年6月に行われた展示会での談話の中で、研究所の支援を受けられたことについて「将来国鉄でも役立つとの考えからであったと思う」と述べている[58]。
- ^ 研究会が行われた時間帯は、就業時間が終了した午後5時から午後8時までで、小田急の担当者はこの研究会を「夜学」と呼んでいた。研究会の一部に参加した生方良雄は「我々が考えてもいない発想をしていると思った。海軍出身の技術者から授業を受けているような雰囲気で、ずいぶん勉強になった」と述べている[59]。
- ^ a b 当時、経堂工場の建物の奥行きは67.5mしかなかった[70]。
- ^ a b 後年、生方良雄は「SE車の8両をよく狭い経堂工場で整備できたものだ」と感想を述べている[69]。
- ^ この時点で日本に存在した高速電気鉄道向け連接車は、1934年に登場した京阪60型、1942年に登場した西鉄500形、1952年に改造によって登場した名鉄2代目400形の3形式しかなく、いずれも2車体か3車体であった[74]。
- ^ 当時の日本で、外板にステンレス板を使用した車両は関門トンネル区間用の国鉄EF10形電気機関車しかなく、日本で初めて電車でステンレス外板を使用した東急5200系電車の登場も小田急SE車登場の翌年であった。日本において、鋼体全てがステンレス鋼というオールステンレス車両や、アルミ軽合金製車両の登場に至っては1960年代に入ってからであった。
- ^ 新幹線0系電車先頭部の形状抵抗係数は0.21である[90]。
- ^ 1700形・2300形の客用扉も、特急専用車だった頃は手動扉であった[96]。
- ^ 発電制動・空気制動を併用するという表記。
- ^ 「ハイスピードコントロール (High Speed Control) ・ダイナミックブレーキ (Dynamic Break) 付」の略である。
- ^ 従来の鉄道車両では側受に数ミリの隙間を設け、荷重の全てを原則的に心皿が負担する方式が用いられていた。しかし軽量化の観点からは、左右の枕ばねに近い側受で荷重を常時負担する方が揺れ枕など心皿周辺の各部材断面の縮小が図れて有利であった。
- ^ 2・3号車の間、4・5号車の間、6・7号車の間。
- ^ 山本利三郎は「経堂工場でSE車を見せたら、なかなか離れなかった」と回想している[140]。
- ^ 山本からの提案に対する島の答えは「やろうじゃないか」だったという[138]。
- ^ 国鉄時代、私鉄の車両が国鉄で走行試験を行ったのは、SE車以外には1982年に東海道本線でLSE車を使用した走行試験の事例があるのみである[158]。
- ^ それまでの国鉄線上での最高速度記録は、1954年12月にC62形蒸気機関車17号機が東海道本線木曽川橋梁上で記録した129km/hで[165]、この時のSE車の記録はC62形17号機の記録をも上回る。
- ^ 国鉄側の責任者だった石原は、沼津到着後に車両を点検する山本と三木の姿を「子供が入学試験に通った時のような顔をしていた」と回想している[171]。
- ^ 当時は片浜駅は未開業。
- ^ 竣功届は営業運行開始後の1959年3月2日提出であった[183]。
- ^ 銅粉末やグラファイトなどを混和焼結して形成される焼結銅合金の一種。日本粉末合金によって1949年に実用化された。カーボンと比較してトロリー線との接触抵抗が小さく熱伝導率も高いため、過大電流の通流時のトロリー線溶断事故抑止に有利という特徴がある[187][188]。
- ^ 台車の数が変わっていないため、廃車になった2両は車体のみの状態。
- ^ これは、小田急側が譲渡条件として提示したもの。大井川鉄道は当初3両連接に改造しての使用を考えていたが、先頭車両に乗客用扉の設置(改造)は小田急側が承服せず、3両連接では中間車の扉片側1箇所のみで営業列車に使用できないため、結局、5両連接のまま導入された。
- ^ JR東海371系電車とRSE車。
出典
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- ^ a b 『鉄道ピクトリアル』通巻546号 刈田草一「小田急電鉄 列車運転の変遷」 (1991) p.154
- ^ a b 『鉄道ジャーナル』通巻297号 須田寬「新特急あさぎり 経緯と期待」 (1991) p.35
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- ^ a b c d e f g h i 『鉄道ピクトリアル』通巻829号 「あの日、あの頃 小田急の情景」 (2010) p.183
- ^ 碇義朗『超高速に挑む―新幹線開発に賭けた男たち。』 (1993) p.9
- ^ a b c d 青田孝『ゼロ戦から夢の超特急 小田急SE車世界新記録誕生秘話』 (2009) p.210
- ^ a b c 『鉄道ファン』通巻422号 山下和幸「小田急ロマンスカーの足跡」 (1996) p.44
- ^ 生方良雄、諸河久『小田急ロマンスカー』 (2012) p.104
- ^ a b c d 生方良雄、諸河久『小田急ロマンスカー物語』 (1994) p.86
- ^ a b 『鉄道ピクトリアル』通巻829号 「小田急の保存車両」 (2010) p.8
- ^ a b 生方良雄『小田急ロマンスカー総覧』 (2005) p.137
- ^ 『鉄道ピクトリアル』通巻829号 「歴代ラインナップで見る小田急ロマンスカー」 (2010) p.235
- ^ 一部車両の解体と今後の保存・展示について - 小田急電鉄 2018年4月27日(インターネットアーカイブ)
- ^ “KD18台車を展示しました。”. 近畿車輛 (2022年10月6日). 2022年11月17日閲覧。
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