右筆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 08:43 UTC 版)
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概説
初期の武士においては、その全てが文章の正しい様式(書札礼)について知悉しているとは限らず、文盲の者も珍しくなかった。そこで武士の中では、僧侶や家臣の中で文字を知っている人間に書状や文書を代筆させることが行われた。やがて武士の地位が高まってくると、公私にわたって文書を出す機会が増大するようになった。そこで専門職としての右筆が誕生し、右筆に文書を作成・執筆を行わせ、武家はそれに署名・花押のみを行うのが一般的となった[2]。これは伝統的に書式のあり方が引き継がれてきたために、自筆文書が一般的であった公家とは大きく違うところである。武家が発給した文書の場合、文書作成そのものが右筆によるものでも署名・花押が発給者当人のものであれば、自筆文書と同じ法的効力を持った。これを右筆書(ゆうひつがき)と呼ぶ。
どれほど任せるかは個人差があり、最上義光や伊達政宗のように公私問わず大半が自筆の者、豊臣秀吉のように公文書は任せるが私事の手紙は自ら書く者[1][3]、足利尊氏のように署名・花押まで右筆に任せてしまう者などがあった。
なお、事務が煩雑化すると、正式な手続を経て決定された事項について右筆が自らの職権の一環として文書を作成・署名を行い、これに主君発給文書と同一の効力を持たせる例も登場する。こうした例は院宣や綸旨などに早くから見られ、後に武家の奉書や御教書などにも採用された。
天皇・皇后の親書などの代筆をする宮内庁の文書専門員は「祐筆」と呼ばれることがある[4]。
鎌倉幕府・室町幕府
源頼朝が鎌倉幕府を発足させた時に、京都から下級官人を招いて事務的な業務を行わせたが、その初期に右筆を務めていたのが大江広元である。後に広元が公文所・政所において行政に専念するようになると、平盛時(政所知家事)・藤原広綱・藤原邦通らが右筆を務めた。
その後、将軍や執権のみならず、引付などの幕府の各機関にも右筆が置かれ、太田氏や三善氏などの官人の末裔がその任に当たるようになった。基本的に室町幕府もこの制度を引き継いだが、次第に右筆の中から奉行人に任じられ、発言力を増大させた者たちが右筆方(奉行衆)と呼ばれる集団を構成するようになった。
なお、室町幕府では、行政実務を担当する計方右筆・公文書作成を担当する外右筆(とのゆうひつ)・作事造営を担当する作事右筆などと言った区別があった。
織豊政権
戦国時代になると、武家の多くは署名・花押のみを行うのが一般的となった[2]。また戦時に必要な文書を発給するための右筆が戦にも同行するようになった。戦国大名から統一政権を打ち立てた織田・豊臣の両政権では右筆衆(ゆうひつしゅう)の制が定められ、右筆衆が行政文書を作成するだけではなく、奉行・蔵入地代官などを兼務してその政策決定の過程から関与する場合もあった。豊臣政権の五奉行であった石田三成・長束正家・増田長盛は元々豊臣秀吉の右筆衆出身であった。他に右筆衆として著名なものに織田政権の明院良政・武井夕庵・楠長諳・松井友閑・太田牛一、豊臣政権の和久宗是・山中長俊・木下吉隆・安威了佐などがいる。
なお、後述のように豊臣政権の没落後、右筆衆の中には徳川政権によって右筆に登用されたものもおり、右筆衆という言葉は江戸幕府でも採用されている。
- ^ a b “秀吉の側室宛て自筆書状を初公開 名古屋市博物館、病気見舞う” (日本語). 東京新聞 TOKYO Web (2021年8月20日). 2021年8月20日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2021年8月20日閲覧。
- ^ a b “若き政宗、覚悟と気概 米沢城主2年目の書状見つかる 戦国武将の駆け引きも” (日本語). 河北新報オンラインニュース (2021年7月15日). 2022年5月21日閲覧。
- ^ “秀吉の側室宛て自筆書状を初公開 名古屋市博物館、病気見舞う” (日本語). 徳島新聞電子版. 2021年8月20日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2021年8月20日閲覧。
- ^ “第74回日書展受賞者 佐伯司朗先生 インタビュー│サンスターストーリー│サンスター製品情報サイト” (日本語). サンスター. 2021年3月2日閲覧。
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