大橋重保
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/13 09:53 UTC 版)
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代初期 |
生誕 | 天正10年(1582年) |
死没 | 正保2年2月4日(1645年3月1日) |
別名 | 勝千代、長左衛門、龍慶、立慶 |
官位 | 式部卿法印 |
主君 | 豊臣秀次、片桐且元、豊臣秀頼、且元、徳川秀忠、家光 |
父母 | 大橋重慶 |
子 | 重政、重為、宮内、女子1人 |
大橋 重保(おおはし しげやす)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将、書家。龍慶の号で知られる。右筆として豊臣秀頼や徳川将軍家に仕えた。大橋流開祖大橋重政の父で、自身も能書家として知られた。
生涯
大橋氏は河内国の武士で、父重慶は三好氏に仕えた。天正12年(1584年)羽柴秀次に従っていた父が小牧・長久手の戦いで戦死したため、伯母の元に引き取られる。天正18年(1590年)秀次より学問を収めるよう命じられて、南禅寺で以心崇伝に師事した。文禄4年(1595年)秀次が死ぬと西国に浪人し、後に片桐且元に仕え、さらに豊臣秀頼の右筆を務めるようになった。慶長19年(1614年)且元が大坂城を追われると、これに誼を通じて自らも大坂城を去った。大坂冬の陣では片桐隊に属して活躍した。しかし翌年の論功の時点では負傷により蟄居していたために恩賞に預かれなかった。元和3年(1617年)阿部正次に訴え出て相模高座郡に500石を与えられて右筆に取り立てられた。寛永10年(1633年)病を得て辞職・剃髪、翌年には嫡男重政に所領を継がせたが、引き続き将軍に近侍した。寛永11年(1634年)法印に叙せられる。寛永12年(1635年)牛込に所領を与えられる。牛込の隆慶橋・大橋は重保が将軍の命で架けた橋と伝わる。
出典
- 「寛政重修諸家譜」巻第486
大橋重保(龍慶)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/16 18:59 UTC 版)
大橋重保(おおはし しげやす)天正10年(1582年)河内国志紀郡古室村(現大阪府藤井寺市)出身の旗本。幼名は勝千代。父の左兵衛重慶は豊臣秀次に仕えていたが、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで戦死した。勝千代は3歳で伯母にひきとられ、幼くして京都南禅寺に入り以心崇伝に禅僧流の書の教えを受けた。元服後長左衛門重保を名乗り、片桐且元に従った後、31歳の時、豊臣秀頼の右筆となった。豊臣氏滅亡により浪人。江戸に出て、元和3年(1617年)、徳川秀忠に旗本に召し上げられ、その際、鵠沼村・大庭村を合わせて采地500石を賜る。鵠沼村の村高が約600石、後に采地を賜った布施家が約300石弱だから、大橋家采地の鵠沼村分は300石強だったと考えられる。2代将軍秀忠、3代将軍家光の右筆に任じられた。寛永4年(1627年)、『大橋庭訓往来』を著す。寛永10年(1633年)、右筆を辞し、剃髪して龍慶と号した。正保2年(1645年)2月4日、江戸で入寂している。なお、新編相模國風土記稿や第二十四世慶龍は、永禄年間に金堀山空乗寺創建の際の開基とされるが、永禄は重保の誕生前である。龍慶が開基というのが事実なら、空乗寺の創建は寛永10年(1633年)以降、正保2年(1645年)以前でなければならない。あるいは、空乗寺としては後に大橋家采地のうち9石を寺領として寄進を受けた経緯から、出家した大橋龍慶に敬意を表したのではないだろうか。
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