初期キリスト教 初期キリスト教の概要

初期キリスト教

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/07 05:06 UTC 版)

ローマ帝国が全地中海世界を支配していた西暦1世紀の前半、イエス使徒と呼ばれる彼の弟子達によってパレスチナの一角で始められたキリスト教は、古代の歴史を通して信徒を増やし、ローマ帝国の支配地全域とその周辺地域に広まった。この古代のキリスト教の拡大によって、ヨーロッパではキリスト教(教会)の存在が政治、社会、思想全てにおいて最も重要な要素となると共に、北アフリカ中近東においても、イスラム教の到来以前には最も重要な宗教となり、イスラム化以後も今日まで続くキリスト教共同体が形成されることとなった。

十字架を担うキリスト
エル・グレコによる1580年の作。ゴルゴダの丘に向かうイエスの像。イエスの死は彼が「神の国」をもたらすと信じていた信徒に失望を与えたが、やがて死に意味づけがされ、ひとつの宗教として確立された

キリスト教の成立

ユダヤ教とイエス

キリスト教が誕生するより以前、イタリア半島から勢力を拡大したローマは、地中海世界全域を支配する帝国を打ち立てた。ユダヤ人の故地パレスチナは、西暦1世紀までにはこのローマの支配地の一部となっていた。ユダヤ教の指導層の堕落に危機感を覚えた洗礼者ヨハネが洗礼運動を開始すると、ガリラヤ地方出身のイエスもその運動に共感する者の一人となった。ヨハネが捕縛された後、イエスはユダヤ人達に対して自らの宣教を開始した[2][3]

イエスの運動は、その当時においてはユダヤ教の改革運動として始まった。イエスは厳格なユダヤ教徒として安息日には定期的にシナゴーグへ行き、ユダヤの祝祭を祝い、戒律を守った[4]。彼は当時古臭い規則となりつつあった戒律を立て直そうとし、そのためにを愛し、神に奉仕することを強調した[4]。ただし、トロクメはイエスをユダヤ教改革者とみなすことを批判している[5]

イエスの言葉は次第に人々を惹きつけ、彼による各種の奇跡が信じられるようになった。イエスはまた、自らの教えに従う共同体も創設した。イエスの周囲には彼を慕う弟子達による集団が形成され、ある種の組織化、階層化が行われたと見られる[6][7]

イエス・キリスト思想において根本をなすのは福音である。福音とは「良い知らせ」と言う意味で、具体的には「神の国」が近づいているという知らせである[8]。イエスによれば、「神の国」が来ると、既存の社会秩序とは全く異なった新しい秩序がはじまる[8]。神の国が近づいているので、を悔い改めて神に従う生活の準備をしなければならない[8]。これはユダヤ教の終末論を引き継いだものであったが、イエスはユダヤ人の民族的解放にとどまらなかった[9]。イエスは悩み苦しむものはのために責められるのであり、現世でもっとも悪い状態にある者が来世においてもっとも良い状態になると述べる[10]

イエスは民族宗教から普遍宗教へ変化させ、宗教を政治的国家と完全に離した[10]。ここに個人があらわれ、また人間の内面は世界より尊重されるようになる[10]。政治的支配についてイエスは「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」と述べている[11]。こうしてキリスト教では政治社会が特定の宗教とむすびつき、その宗教が政治社会の精神的統一を保障することが否定され、地上的なものと精神的なものが分離される[11]。イエスの神の国は神の霊にむすばれた共同体であり、目に見えない「霊の国」である[12]。イエスは「我が国はこの世のものならず」という[12]。そしてメシアは「人に仕えられんためにあらず、かえって人に仕えんために」来る[12]。イエスの信徒は「われらの国籍は天にあり」と現世よりも来世が重視された[11]。これは現世を無意味とするものではなく、「神の国」にはいるためには現世での行い、悔い改めること、神の国への準備が重要であると説く[11]。またイエスの思想では、人間の外面と内面が区別され、政治社会と倫理が区別された[11]。イエスは神の国を脱政治化して、その意味で非政治的であるが、むしろそれゆえに現実の政治社会に影響を与えた[11]。殉教者ユスティノスによれば、キリストは「あたらしい立法者」であり、新たな形の共同社会を創造した人物であった。[13]

原始教団の誕生

四福音書記者
新約聖書の中心部分をなすイエスの生涯を記録した文書が四福音書である。4人の福音書記者はそれぞれ象徴を持つ。天使で象徴されるマタイ(左上)。ライオンで象徴されるマルコ(左下)。で象徴されるヨハネ(右上)。雄牛で象徴されるルカ(右下)

キリスト教の伝承によれば、ガリラヤ地方で数年間[* 2]癒やしと説教を行ったイエスは、西暦30年前後、弟子達と共にエルサレムへ移った。その地でユダヤ教の指導者たちと激しい論争が行われた後、彼は囚われて十字架にかけられて処刑された[16]。その後間もなく、弟子達の一部の前に生けるイエスが現れたという報告が登場した。彼を見たという弟子達はその驚異を周囲の人々に伝えた。このイエスの復活を信じ、その体験を確信として共有され、継続的に集まる最初のキリスト教徒グループがエルサレムに形成された[17]。当初数十名程度であったと思われるこのグループの中核には、十二弟子として知られるペトロヨハネやイエスの兄弟ヤコブらがいた。これが原始教団となる[17]。彼等はこの時点では自身がユダヤ教徒であることを確信していたと思われる[17]。しかしこれが、後のキリスト教会の母体となっていく。

イエスの処刑後間もなくエルサレムで活動を再開した人々が最初のキリスト教徒であり、その信仰がキリスト教であるが、この段階での「キリスト教」はあくまでもユダヤ教の一分派であり、「ユダヤ教イエス派の運動」や「ユダヤ教のナザレ派」などと呼んだ方が誤解が無いとされる[18][19]。本記事では煩瑣を避けるため鍵括弧で括り「キリスト教」と表記する。これは財産共有制の共同生活を行う共同体であり、ペトロを筆頭とする「十二人」と呼ばれる弟子達が中心となって主流派を構成した[20]。また、当時エルサレムには古くから住むアラム語を話すユダヤ人の他に、周辺地域から再移住したギリシア語を話すユダヤ人達も住んでいた。このようなギリシア語を話すユダヤ人達はヘレニストと呼ばれた。この「ユダヤ教徒のヘレニスト」の中から、エルサレムの共同体へ参加する人々があり、これが「キリスト教徒のヘレニスト」となっていく[21]

エルサレムの共同体の参加人数は増え続け、次第に財産共有制や全員集まっての共同生活が物理的に不可能になっていった。このため自宅に居住する者達が増え、共同体への寄付は各人の裁量に任されるようになっていったと考えられる[22]。また、寄付する資産の無い貧困者の参加の増大によって共同生活の財源の問題も現れ始めたと考えられる。これらによって、共同生活への参加は強く要求されなくなり、完全な団体生活を送らなくても共同体の仲間となることができるようになった。神学博士の加藤隆は、この段階以後を「エルサレム教会」と呼んでいる[22]。次第に教会の組織化も図られ、洗礼癒やし悪霊払いに加え、外部の人々への食事の供与も行われるようになった。このような実務を担当するために「執事」職が設けられた[17]。最初の執事はヘレニストであったという[17]

ステファノの処刑

ステファノ
その名前が明らかにギリシャ風であることからも分かるように、初代教会において、彼はヘレニストの代表であった。彼はファリサイ派によって石打ちの刑にされるが、ジャン・ダニエルーはこの殉教の裏側にキリスト教内部のヘレニストとヘブライストの立場の違いを見ている[23]。図はイタリアバロックボローニャ派に属するジャコモ・カヴェドーネ (en:Giacomo Cavedone) の作品

ペトロを筆頭とする「十二人」を中心としたアラム語を話す教会の主流派グループに対し、ヘレニスト達はステファノを筆頭とした「七人」を中心としていた[21]。この両者は(『使徒行伝』の伝承を信ずるならば)、共同体内部における食事の配給の不公平を切っ掛けに対立を始めた[21]。これは実際には文化的、教理的な根深い対立が表面化したものであろうと考えられる[21]。特に(ユダヤ教の)神殿や祭儀の権威に対しヘレニストの間から批判の声が強まると波紋が大きくなり、執事であったステファノがエルサレムの大祭司に逮捕される事態に発展した[21][17]。ステファノはその場でユダヤ教の神殿中心の教義を強く批判したためユダヤ教徒各派の激しい怒りを招き、石打ちの刑によって処刑された[21][17]

この事件を切っ掛けに、「キリスト教」のヘレニストグループはユダヤ当局による迫害の対象となりエルサレムを追われた。一方で主流派はそのままエルサレムに留まった[21]。しかし、エルサレムから離れたヘレニスト達はサマリアや地中海沿岸の各都市など、ユダヤ当局の追及の手が及ばない地域で活発な伝道を行うようになり、「キリスト教」はエルサレム周囲のみならず、各地の都市に広まるようになった[24]

改宗者パウロ

パウロ
ヴァランタン・ド・ブーローニュもしくはニコラ・トゥルニエによる1620年ごろの作。パウロはキリスト教を言語化し、神学的説明を加えた。これは後代の信仰理解に決定的影響を与えるものであった

キリスト教の最初の数十年間で最も重要な人物の一人がパウロである。パウロは西暦1世紀の初め、イスラエルの外に住むユダヤ人ディアスポラの家庭に生まれた。出身地はキリキアにあるギリシア語圏の都市タルソスである[25]。パウロは当初、熱心なユダヤ教徒としてイエスをユダヤ人のメシア(キリスト)として崇める人々を迫害し、ステファノを石打ちに処した活動家の一人でもあった[25]。キリスト教の伝説では、パウロがエルサレムからダマスカスへ向かう途中、「復活」したイエスに出会い「キリスト教徒」への迫害をやめ、異邦人に福音を伝えるように呼びかけられたことで回心したとされる[25]。パウロはその後、アラビア[* 3]で伝道を行い、数年の後、エルサレムでペトロやヤコブと接触を持った。これによってエルサレム教会の指導者達と知己を得たパウロは、その直後からシリアキリキアキプロス島アナトリア中央部からエーゲ海地方などを周り、各地で教会を作ったとされる[26]

パウロとユダヤ教

パウロの伝道は異邦人に対しても積極的に行われたため、非ユダヤ人の「キリスト教徒」が多数生まれることになった。このことは後に大きな論争を引き起こすことになる。前述したとおり、この時代の「キリスト教」はなおユダヤ教の一形態であった。最初の数十年間、「キリスト教徒」のほとんどはユダヤ人であり、各地にあるシナゴーグが「キリスト教」普及のための拠点となった。パウロ自身も、新たな都市ではシナゴーグで福音を伝えたのであり、「キリスト教徒」となることが「イスラエルの民」への帰属を意味すると信じていた[26]

パウロはキリスト教思想において最も重要な人物の一人とされ、ユダヤ教からイエスによって解放されたとする見解がルター以来主流であった[27]。しかし、トロクメによれば、パウロ自身の意識ではユダヤの思想家であり、ユダヤ教内部の論争に関わっていたという[27]。またトロクメは、パウロを「キリスト教の創始者」と考えることを批判し、この考えがイエスを「ユダヤ教の改革者」という誤った位置づけに貶めるものだという。トロクメはパウロの思想がアウグスティヌス以前は正確に理解されているとは必ずしも言えないこと、中世の神学でもあまり重視されていないことを挙げ、パウロにキリスト教における中心的な地位を与えたのはルネサンス宗教改革であると述べている[28]

異邦人の改宗

十数年にわたり伝道者として活動した後、パウロはキプロス出身のユダヤ人バルナバと、ギリシア人の改宗者テトスとともにエルサレムを訪れた。そこで、ユダヤ・「キリスト教徒」との間に異邦人の改宗者を巡って激しい議論が繰り広げられた。問題となったのはキリストの「道」に加わった異邦人たちは割礼を施されるべきか、またユダヤの律法に従う義務があるかどうかであった。ギリシア人の改宗者テトスは割礼を受けておらず、パウロはテトスを含む異邦人の改宗者への割礼に消極的であり、その姿勢が批難の対象となった。エルサレム教会で主導的な地位を持っていたペトロは異邦人伝道にはそもそも反対しておらず、むしろ既に承認していた[29]。また、同じく指導的地位にあったヤコブは論争に決着をつけるため具体的な合意案を作りだし、異邦人への律法が承認されるとともに、異邦人はユダヤの律法に従うべきものとされた[29]。この合意を伝える書簡がアンティオキアを初め、各都市の教会へ送られたが、すぐに食事の規定を巡ってトラブルとなりその中でペトロやバルナバは異邦人「キリスト教徒」」との付き合いをやめた[30]。パウロはペトロの対応を批判し、西方への伝道を再開した。

パウロ書簡

パウロはかつて伝道を行ったギリシアコリントスへ戻り、その後アナトリアのエーゲ海岸にあるエフェソス、更にトロアスへと移動した[31]。その後再びコリントスへと戻り、その地でローマの信徒へ書簡を書いた[31]。これが『ローマの信徒への手紙』と呼ばれる文書で、パウロの書いた書簡の中では最も重要かつ影響力ある書簡となっている[31][* 4]。これを含むパウロ書簡と呼ばれる一連の文書群のうち、いくつかはパウロの弟子の手になる[* 5])。これらの文書には父なる神、キリスト以外の第三の神格、聖霊(聖神)が既に現れており、ひとつの神が、神秘的な三重の本性を持つというキリスト教教義の明確な特徴(三位一体)にまつわる認識は、すでにこの最初期の文書に見ることができる[33]

パウロにおいてはの意識が非常に強く、彼は心の欲するを行うことができずに、かえって心の欲せざるをなしてしまうことに悩んだ。そのため彼の思想では無力な人間は自力では救われることがないために、神の恩寵によってのみ救済される。そしてパウロは、イエスの死こそ神の自己犠牲であり、この神の自己犠牲によって人間は罪から解放され、これを信じ、イエスの教えを実践することで新しいを迎えることができるという[* 6]。このようにパウロにおいては内面と行為の分裂が説かれた。

パウロの政治思想としては、受動的服従が知られている。

「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。 — パウロ、ローマの信徒への手紙13.1-4[37]

ウォーリンによれば、パウロは政治的権威に対して負う義務と宗教的権威に対するそれを区別したが、これは政治的忠誠心と宗教的忠誠心の分離ではなく、政治秩序を神の摂理の中に位置づけ、当時のキリスト教徒が政治秩序のキリスト教的理解に基づいて受け入れるよう促したものであった[38]

ダントレーヴは「キリスト教政治理論の全歴史は、この[パウロの手になる]聖句に対する絶えざる注釈以外の何ものでもない」と述べている[39]。また、M・パコーはパウロの言葉は教会と国家を分離し、国家に対するキリスト教の服従を説くものであるが、注目すべきは彼が従うべき対象として「権威」を挙げているが、「皇帝」を挙げていないことであると指摘している[40]。またパウロはキリスト教の将来はローマ帝国とともにあると考えており、ローマ市民であったパウロはローマ当局からの保護を求めている。そのためトロクメは、パウロがローマ帝国の支配を無条件に肯定していたと指摘している[41]

ウォーリンによれば、パウロや初期の教会指導者たちが政治権力への服従を繰り返し述べていることは、この時代のキリスト教徒に政治秩序への鋭い対立意識があったことを物語っている[38]。事実66年にはユダヤ戦争(〜70年)が起き、112年115年にもユダヤ人が蜂起し、135年にもバル・コクバの乱が起きている。

ほかに注目すべき思想としては、「自分の手で働くこと」を推奨している

わたしたちが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい — 新共同訳、「テサロニケの信徒への手紙一」4.11

これは明らかに古典古代の労働観に反する[42][* 7]








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