初期小型試験ロケット時代
わずか23cmの「ペンシルロケット」でゼロからのスタート
日本の航空科学は、第2次世界大戦の敗戦による空白期を経たのち、ゼロに近い状態で再スタートしました。そのなかでもめざましい活躍をみせたのが、糸川英夫教授ひきいる東京大学生産技術研究所でした。同研究所に設けられたAVSA(航空電子・超音速航空工学連合)研究班が最初に取り組んだのは、民間の機械・化学メーカーと協力しての「ペンシルロケット」の開発です。このペンシルロケットは超小型のロケットで、長さはわずか23cm。1955年(昭和30年)3月から4月にかけて、東京都国分寺市の半地下に掘った壕で実施された水平発射試験では、全29機の打ち上げに成功する快挙をなしとげました。
高度6kmに到達した全長1mの「ベビーロケット」
秋田県道川海岸でおこなわれた飛翔実験で到達高度600mを達成したAVSA研究班は、続いて全長1mを超す「ベビーロケット」の開発に着手しました。このベビーロケットは、ペンシルロケットと同様、無煙火薬の固体ロケットです。研究班は、同年(1955年)のうちに失敗を重ねながらも計36機を打ち上げ、到達高度6kmの記録を達成しました。徐々に成果を上げはじめたAVSA研究班には、さらに大きな目標が待っていました。それは1957年から始まった国際地球観測年(IGY)への参加です。このIGYは、世界じゅうの科学者が協力して地球を観測し、その全体像を解明しようというプロジェクトです。日本は、地球上の観測地点9ヵ所のうちの1つを受けもつことが決定しており、そのためには数年のうちに到達高度100kmを達成しなければなりませんでした。
「カッパロケット」で高度100kmをめざす
高度100km達成には、解決しなければならない数々の問題がありました。その1つが燃料です。当時、高度100kmに到達していた世界のロケットはすべて液体燃料方式でした。しかし、独自技術の開発をめざすAVSA研究班は、あくまで固体燃料にこだわることにしたのです。ベビー、アルフアベータの各ロケットに続くカッパロケットの開発では、機体に新しく強化プラスチック製ノズルを採用したり、空気抵抗を低減させたうえで、本体に強度の強いアルミ製の構造を用いるなど、数々の工夫と試行錯誤を重ねました。その結果、ようやく2段式ロケット、カッパ6型の開発に成功し、1958年、到達高度60kmながら国際気象観測年(IGY)への参加を果たしました。
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