初期キリスト教
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初期キリスト教音楽
脚注
注釈
- ^ 松本宣郎は新約聖書の成立を基準にして原始キリスト教と初期キリスト教を区分している[1]。
- ^ ガリラヤ地方でのイエスの宣教の期間を、松本は長くても2年程とし[14]、ウィルケンはおよそ3年間とする[15]。
- ^ 正確な位置は不明、恐らくは現在のヨルダン地域とされる。
- ^ 例えば、宗教改革において重要な役割を果たしたマルティン・ルターの神学の中核である信仰義認の教理はローマ信徒への手紙をはじめとしたパウロ書簡にその根拠を置いている[32]。この文書はパウロが訪れたことのないローマの信徒へ向けられたことから、パウロ以外にも伝道者がいて、ローマ教会がシリアのアンティオキア同様、パウロ以外の伝道者によって設立されたことを証す[33][33]。
- ^ 新約聖書に収められている13の書簡のうち、真にパウロの手になるものと考えられているのは、7つである。すなわち「ローマの信徒への手紙」・「コリントの信徒への手紙 一」・「コリントの信徒への手紙 一」・「ガラテヤの信徒への手紙」・「フィリピの信徒への手紙」・「テサロニケの信徒への手紙 一」・「フィレモンへの手紙」であり、これらはその真性をほぼ一致して認められている。「コロサイの信徒への手紙」・「テサロニケの信徒への手紙 二」については論争中である。「エフェソの信徒への手紙」・「テモテへの手紙 一」・「テモテへの手紙 二」・「テトスへの手紙」は、パウロの弟子によるものであるとされている。[34]
- ^ この新しい生は物質性を捨て、人類史から神の世界に逃れることではない。このことは初期教父、たとえばエイレナイオスにおいてグノーシス主義の説く異端の教説に対する批判のなかで明確に表明される。彼によれば、人類の救済史とはあくまでその本来的な物質性から、神の導きによってより高次の霊性を獲得していく過程である。そしてこのような立場に立つとき、物質的な現実世界は矛盾と不幸に満ちている不完全なものとして相対化されていくのである。だが同時にこの物質的世界こそが神の救済史の舞台であり、神の現存し、働きかける場である。[35][36]
- ^ 古典古代においては労働は奴隷がするもので、自由人は閑暇(スコレー σχολη)にあることを誇りとしていた。たとえばアリストテレスは「また、幸福は閑暇(スコレー)に存すると考えられる。」[43]と述べている。ハンナ・アレントによれば、アリストテレスは全体として必要に従属しているヒト属を人間と呼ぶことを認めなかったのだという[44]。
- ^ 「奴隷解放」は啓蒙主義時代に提唱された基本的人権思想の一環であり、これを中世前期の教会に当てはめるのは時代錯誤であり極めて非合理的である
- ^ 福田歓一は過渡期の思想家であるとしつつも、キリスト教政治思想・国家論を初めて体系的に理論づけた人物であるとして高く評価している[72]。福田は西洋における歴史哲学の成立もアウグスティヌスに帰しているが、岡崎勝世もキリスト教思想・神学・歴史学におけるアウグスティヌスの役割を非常に重く見ている。金子晴勇は文献を引用しつつ、アウグスティヌスは西ヨーロッパを古代文化とは異なった中世文化へと方向付けたとし、西ヨーロッパの「新生」に貢献した人物であると述べている。
- ^ アウグスティヌスの自由意志の解釈を巡っては相反する2つの立場がある。一方はアウグスティヌスは予定説に立つ恩寵先行論に基づいて自由意志を否定的あるいは限定的に論じたとする立場。他方は救いにおける個人の自由意志を積極的に認めたとする立場である。
前者に基づく解釈はプロテスタンティズム神学で述べられることが多い。A・E・マクグラスはアウグスティヌスの自由意志論を次のように2段階に分けて整理する。- 自然的な人間の自由は肯定される。人間が物事を為すのは自由意志による。
- 人間の自由意志は罪によって破壊も排除もされていないが、罪によってゆがめられているために、その回復には神の恵みが必要不可欠である。
- 生きとし生ける者は誰でも、キリストの恩恵なしには罪の裁きを免れることは出来ない。
- 神の恩恵は、人間的な功績によって与えられることはない。
- 恩恵は全ての人に与えられるわけではない。
- 恩恵は神の一方的な憐れみにより与えられる。
- 恩恵が与えられないのは神の裁きによる。
- 善であれ悪であれ、自分の行為に対しては報いがある。
- 主への信仰は人間の自由意志による。
後者の立場としては南原繁『政治理論史』・半沢孝麿『ヨーロッパ思想史における<政治>の位相』があり、アウグスティヌスは予定説によって、世界を神による永遠不易の秩序内にあるとしたが、それは人間の自由意志による救いを少しも否定しないというものである。アウグスティヌスは神は人間を本性上自由意志を持つ者として創造したのであるから、人間の救いは自由意志に基づくものでなければならないと考えたとする。エラスムスも後者の立場である。 - ^ 同様に、南原繁も『政治理論史』のなかで、アウグスティヌスは「神と人間のあいだの道徳的人格関係」 (p.92) を明らかにしたと述べている。
- ^ アウグスティヌスにあっては、絶対的で永遠なる「神の国」が歴史的に超越しているのに対して、「地の国」とその政治秩序はあくまで時間的で、非本質的な限定的なものに過ぎない。したがって政治秩序は相対化されるのであるが、アウグスティヌスがいわゆるニヒリズムや政治的相対主義に陥らないのは、政治秩序の彼岸に絶対的な神の摂理が存在し、現実世界に共通善を実現するための視座がそこに存在するからである。だからこそ基本的に「神の国」とは異質な「地の国」の混入した「現実の」教会は、それでもなお魂の救済を司る霊的権威として、「地の国」において「神の国」を代表するのである。ここに倫理目標の実現の担い手が国家から教会へ、政治から宗教へと移行する過程を見ることができ、古典古代の政治思想との断絶が生じたのであった。[78]
あるいはJ・B・モラルによれば、アウグスティヌスの考えでは異教国家に真の正義はない。『神の国』の中で、キリスト教に基づく政治社会だけが正義を十分に実現できる国家であるとアウグスティヌスは考えており、事実彼は非キリスト教的な政治社会には「国家」 (Respublica) の名称を与えてはいない。古典古代の思想家に比べて、アウグスティヌスの考える国家は卑しい存在であり、それは堕落した人間の支配欲に基づく。その存在理由はあくまで神の摂理への奉仕で、それはカトリック教会への従属によって得られるのである。[79] - ^ 「そこで彼らが、『主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります』と言うと、イエスは、『それでよい』と言われた。」[80]
- ^ ただしゲラシウス1世は一方で教権が帝権の上位にあることを論じているから、俗権と教権は完全に並列的であると考えられていたわけではない。彼によれば、「政治的支配をする」王は「権力」 (potestas) を持つのに対し、教皇は権威 (auctoritas) を持っているのだが、後者こそが完全な主権なのである。[81]
- ^ ゲラシウスの定義は多くのことを主張しているのではなく、むしろ曖昧すぎる故に問題となった。その定義は俗権と教権の間に明確な境界線が引かれるべきことを述べているが、それがどこに引かれるべきか明らかにしていないのである。したがって、ゲラシウスの教説は教皇側を支持する側からも皇帝側を支持する側からも、その論拠として用いられたのである[82]。
- ^ レオ3世がラテラノ大聖堂に取り付けさせたモザイク画では、ペトロが教皇にパリウムを、皇帝に槍を与えている。ペトロは最初のローマ司教(のちのローマ教皇)となりローマで殉教したとされる使徒である。『シュヴァーベンシュピーゲル』のなかには次のような記述がある。"主は両剣をペトロに委ねた。ゆえにその後継者である教皇が自ら教会の剣を行使し、皇帝に世俗の剣を与える。"
出典
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参考文献
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- ダントレーヴ、友岡敏明, 柴田平三郎訳「政治思想への中世の貢献」未来社 (1979)
- クラウス・リーゼンフーバー 著、酒井一郎ほか 訳『中世における自由と超越―人間論と形而上学の接点を求めて』創文社、1988年。ISBN 4-423-10083-5。
- クラウス・リーゼンフーバー 著、村井則夫 訳『中世思想史』平凡社<平凡社ライブラリー>、2003年。ISBN 978-4582764857。
- アリスター・マクグラス 著、神代真砂実 訳『キリスト教神学入門』教文館、2002年。ISBN 978-4764272033。
- アリスター・マクグラス 著、関川泰寛・神代真砂実 訳『キリスト教思想史入門―歴史神学概説』キリスト新聞社、2008年。ISBN 978-4873955148。
- J・B・モラル 著、柴田平三郎 訳『中世の政治思想』平凡社〈平凡社ライブラリー〉、2002年。ISBN 978-4582764345。
- M・パコー 著、坂口昂吉・鷲見誠一 訳『テオクラシー』創文社、1985年。ISBN 978-4423493458。
- エティエンヌ・トロクメ 著、加藤隆 訳『聖パウロ』白水社<文庫クセジュ>、2004年。ISBN 978-4560508817。
- シェルドン・S・ウォーリン 著、尾形典男・佐々木武・佐々木毅・田中治男・福田歓一・有賀弘・半沢孝麿 訳『西欧政治思想史―政治とヴィジョン』福村出版、1994年。ISBN 978-4571400162。
- J・A・ユングマン 著、石井祥裕 訳『古代キリスト教典礼史』平凡社、1997年。ISBN 978-4766413977。
- 鈴木宣明『ローマ教皇史』教育社歴史新書、1980年。
- 鈴木宣明『福音に生きる』聖母の騎士社<聖母文庫>、1994年。ISBN 4-88216-117-6。
- 半澤孝麿『ヨーロッパ思想史における「政治」の位相』岩波書店、2003年。ISBN 4000023977。
- 福田歓一『政治学史』東京大学出版会、1985年。ISBN 978-4130320207。
- 藤原保信、飯島昇藏『西洋政治思想史』 1巻、新評論、1995年。ISBN 4794802536。
- 保坂高殿『ローマ帝政初期のユダヤ・キリスト教迫害』教文館、2003年。ISBN 978-4764272255。
- 宮谷宣史『アウグスティヌス』講談社<講談社学術文庫>、2004年。ISBN 978-4061596719。
- 松本宣郎「第1章 キリスト教の成立」『キリスト教の歴史(I)』山川出版社〈宗教の世界史〉、2009年8月。ISBN 4-634-43138-6。
- ロバート・ルイス・ウィルケン 著、大谷哲・小坂俊介・津田拓郎・青柳寛俊 訳『キリスト教一千年史(上)』白水社、2016年。ISBN 978-4-560-08457-1。
- 加藤隆『「新約聖書」の誕生』講談社<講談社学術文庫>、2016年11月。ISBN 978-4-06-292401-6。
- 佐藤研『聖書時代史 新約篇』岩波書店〈岩波現代文庫〉、2003年。ISBN 9784006000998。
- 小田垣雅也『キリスト教の歴史』講談社<講談社学術文庫>、1995年5月。ISBN 978-4-06-159178-3。
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