報道しない自由
報道機関が、公平な報道という理念に立てば報道してしかるべきといえる情報を、自らの主義主張にそぐわない、あるいは、その報道機関が共鳴する組織や人物によって都合が悪いといった理由で、報道せずに見過ごす(見て見ぬふりをする)というあり方を指す表現。いわゆる偏向報道の一端。
報道しない自由という表現は「報道の自由」をもじった言い回しである。報道の自由(freedom of press)は、報道を通じて事実を伝達する権利であり、国民の「知る権利」や「表現の自由」に照らして自明の権利と解釈される。
近年、新聞やテレビといった大手マスコミの報道が恣意的な取捨選択を経ているのではという疑義が少なからず提示されている。オンラインメディアがマスコミに比肩する情報源となり、ソーシャルメディアが普及して拡散されやすくなったことも、疑義の声の高まりを後押ししているといえる。
報道しない自由は、新聞やテレビの報道が特定の立場に偏っている(ように思われる)さまを揶揄もしくは非難するキーワードといえるが、ことテレビのニュース番組においては放送法第4条における「政治的に公平であること」「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」といった規定に抵触する(違法行為に該当する)という観点から、特に是非が問われる。
2015年に発足した、識者を中心とする任意団体「放送法遵守を求める視聴者の会」は、テレビ報道における放送の公平さや事実の正確な報道を訴えるべく活動している。
関連サイト:
放送法遵守を求める視聴者の会
報道しない自由
報道しない自由
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/19 14:40 UTC 版)
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報道しない自由(ほうどうしないじゆう)とは、国民の知る権利のために報道機関が有する報道の自由に対して、時には報道機関が報道しないことによって国民に知らせないことも自由になってしまうという危険性を示す用語である[1]。
放送事業者については放送法第4条の「政治的に公平であること」「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」の規定から、報道しない自由が問題視されることがある[2]。
議論
報道機関が情報を報道しないことに対しては、古くは杉村楚人冠の「故意に不実の事を捏造するのも罪悪であるが、公にすべき事実を差し押さえて公にせぬのも罪悪たることは、相同じい」[3]といった主張などがある[4]。
鈴木寛は、「報道の自由」と「報道しない自由」は表裏一体であると指摘し、これを知ることはインテリジェンスを鍛えるために第一に重要なことだという[5]。
ギル・スコット・ヘロンは、これを端的に表現した「en:The Revolution Will Not Be Televised」(革命はテレビ中継されない)というポエトリーリーディングを1971年に発表している。
脚注
出典
- ^ 樋口陽一『講座・憲法学』 別巻(戦後憲法・憲法学と内外の環境)、日本評論社、1995年6月1日、185頁。ISBN 978-4535005174。
- ^ 日下公人『新しい日本人が日本と世界を変える』PHP研究所、2016年12月22日。ISBN 978-4569832357。
- ^ 杉村廣太郎『最近新聞紙学』朝日新聞研修所、1968年4月10日、54頁。doi:10.11501/3007920。国立国会図書館書誌ID:000001239515。
- ^ 水島朝穂 (2012年7月2日). “「首相官邸前異状なし、報告すべき件なし」―テレビ報道の劣化”. 早稲田大学 水島朝穂のホームページ. 2020年10月6日閲覧。
- ^ “大学無償化問題を論じる前に持っておくべき問題意識”. ダイヤモンド・オンライン. (2017年7月31日) 2020年10月6日閲覧。
関連項目
- 報道しない自由のページへのリンク