SOD設立後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 00:01 UTC 版)
自らが番組を制作しても制作会社という立場上、著作権はテレビ局のものになってしまう放送業界の仕組みから、自分で著作権を持つ作品を作り、「いいもの作れば大儲けで、失敗をすれば大損する」という単純な商売をしたいと思い、テリー伊藤の指示に従って、アダルトビデオ業界へ参入した(テリーがオーナーとなってアダルトビデオ会社を設立した)。 それからは、成功の軌道に乗り、年商をどんどん上げ、快進撃を続けた。このエピソードから、高橋は「失敗しても、諦めず何度も挑戦すれば、絶対に成功できる」と、書籍などのメディアで語っている。 不祥事も2件あった。1件目は、16歳の少女をAV女優として出演させ、そのまま販売してしまったこと。チンピラの男性から脅しの電話がかかってきたことで発覚。高橋はすぐに警察に自首した。2件目は、貸し切りのスケート場で1999年4月に「全裸フィギュアスケート」の撮影時AV女優の性器が外から見える状態でロケを行ってしまったこと。この件を巡り、高橋は警視庁から会社および女優・制作関係者らとともに公然猥褻罪で書類送検されたことで、罰金30万円の略式起訴命令を受けた。全裸でのフィギュアスケートの撮影について記事にした雑誌社が、日本スケート連盟にコメントを求めたことから、同連盟が警視庁に告発したとされる。その時高橋は、「留置場も見てみたい」と生活用具を入れたバッグを見せてアピールしたものの、受け入れらなかった。この不祥事により、高橋は多くの社員が退職してしまうという逆境に立たされた。そこで、これを機に、法に触れそうなビデオは全て廃盤にし、そのようなロケも一切禁止。また、AV女優の年齢チェックを厳格化するなど、マネジメントを強化した。高橋は後日、「警察のご指導のおかげで、今の快進撃があります」とコメントしていた。 愛弟子の一人に、SODの取締役社長を務めた菅原千恵がいる。 アダルトビデオ業界を選んだのは、映像ビジネスの世界でまずメーカーとして独立し、自分が権利を持つ作品で制作と販売の両方を出来るという分野がアダルトビデオ業界しかなかったからである。自らは「本当はアダルトビデオは好きじゃない」と発言している。アダルトビデオで成功を収めると、一般向けのアニメ作品や映画の自社製作を手掛けたが、全く売れなかった。 2003年の「マネーの虎」(日本テレビ)内で、「もうすぐ会社を辞めて、小さなことをやりたいと思っている」と話し、その後、2005年には自身のブログにて「農業を始めたい」と告白。SODの代表取締役を辞任し、以降メディアから姿を消した。 2004年12月に公開された「あゝ!一軒家プロレス」を製作した理由は、「民放テレビ局にSODのロゴが入ったテレビCMを打ちたかったから。最終的に4億円以上も映画に費やしてしまった」とコメントしている。 自ら販売した作品で、マクドナルドの店員が勤務中に出演する物が存在する。これはマクドナルド側に許可なく撮影を行ったものである。「女格闘家VSレイプ魔」という作品では、顔を殴られたとして不服を申し立てた女優に対し契約に応じないとプロではないと諭す。女優はその後マネージャーとやりとりをし、妥協策としてぶっかけされるシーンのみを行った。また、この作品のシリーズではAV女優が脱臼により入院している。なおタモリ倶楽部にてSODを訪れた際、浅草キッドがタモリにAV史上に残る名作と語っている(同作をタモリは知らなかった)。 スーパーフリー事件のすぐ後にスーフリ再現AVを販売し、その数ヵ月後に早稲田大学でゼミを行う。その際に学生からの質問会があったが、スーフリについてはふれていない。
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