SACCの統制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 16:32 UTC 版)
「デズモンド・ムピロ・ツツ」の記事における「SACCの統制」の解説
我々SACCは、南アフリカが人種の区別を捨て去り、誰もが神に似せられて作られたがゆえに尊重される国になると信じている。したがってSACCは黒人の組織でも白人の組織でもない。それは我々の社会において抑圧され、不当に扱われている人々に断固として寄り添うキリスト教の組織である。 デズモンド・ツツ、SACCにて ツツはジョン・リース(John Rees)の後任として南アフリカ教会協議会(英語版)(SACC)の事務総長(general secretary)にノミネートされたが、結局ジョン・ソーン(John Thorne)が選出された。だが、ソーンは3か月後その地位を辞任し、ツツがもう一度ノミネートされ、今度は選ばれた。ツツは受諾を迷ったが、主教会議(synod of bishops)の強い要請によりこれを受諾した。彼のこの決断は、レソトの聖公会信徒に怒りをもって迎えられた。ツツは1978年3月にSACCの実権を握った。ツツはヨハネスブルク(ここにSACCが本部を置くコツォ・ハウス(英語版)がある。)の、かつてのオルランド・ウェストの家に戻った。この時は匿名の外国人による寄付でこの家が購入された。ノマリゾ・レアは南アフリカ人種関係研究所(英語版)のアシスタント・ディレクターとして職を得た。ツツはSACCの初めての黒人指導者であり、この時点では、SACCは黒人が多数派を占めるごくわずかな南アフリカのキリスト教機関の1つであった。彼はSACCで、日々の職員の祈り、定期的な聖書の学習、月次の正餐、瞑想(silent retreats)を導入した。また、新しいスタイルの指導力を発達させ、イニシアティヴを取ることに長けた上級の(senior)スタッフを任命し、SACCの細かい作業の多くを彼らに委任するとともに、会議と覚書を通じて彼らとの連絡を維持した。彼のスタッフの多くが彼を「Baba(お父さん)」と呼んでいた。彼はSACCを南アフリカで最も目立つ人権主張団体にすることを決断した。これは政府の逆鱗にふれるであろう方向性であった。彼の努力は国際的に有名となり、1978年にはキングス・カレッジ・ロンドンが彼をフェローに選出し、ケント大学とニューヨークのGeneral Theological Seminaryも名誉博士号を授与した。翌年にはハーバード大学もまた、彼に名誉博士号を授与した。 SACCの首脳としてのツツは資金調達にほとんどの時間を費やし、特にSACCの様々なプロジェクトのために海外から資金を確保しようと試みた。この間、SACCの部門役員たちの1人が資金を横領していたことが明らかとなった。1981年11月、この問題を調査するため、裁判官C .F .エロッフ(C. F. Eloff)率いる全員が白人の政府委員会が立ち上げられた。ツツは証拠をこの委員会に提出し、調査中にアパルトヘイトは「邪悪(evil)」であり「非キリスト教的(unchristian)」であると非難した。エロッフの報告書が公表されたとき、ツツは特に委員会に神学者が1人も参加していないことに焦点をあて、(イギリスの園芸展の)チェルシー・フラワー・ショーを「盲人の審査団(a group of blind men)」に審査させるようなものだとそれを非難した。ツツはまた牧師の仕事に復帰したいと考え、1981年にはソウェトのオルランド・ウェストの聖オースティン教会(St Augustine's Church)の教区牧師(rector)になった。また、彼は自身の説教とスピーチの収集を始めた。これは1982年に、『Crying in the Wilderness: The Struggle for Justice in South Africa』というタイトルで出版された。続いて1984年には『Hope and Suffering』という別の集成が出版された。
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