ジョージア植民地
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/17 06:28 UTC 版)
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公用語 | 英語 | ||
首都 | サバンナ市 | ||
統治者 | 総督 | ||
設立 解消 |
1732年 1777年 |
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通貨 | ポンド |
ジョージア植民地(ジョージアしょくみんち、英: Province of Georgia)は、イギリス領北アメリカにおける南部植民地の一つである。後にアメリカ合衆国になったイギリスによって設立された13植民地の中では最後のものだった。当初の勅許では細い帯の領地が太平洋まで伸びていた。
植民地の設立勅許は1732年4月21日に、イギリス王ジョージ2世からジェームス・オグルソープに与えられ、ジョージ2世に因んで名前が付けられた。オグルソープは大変厳格な法律を作ったので多くの植民地人は同意できなかった。オグルソープはこの植民地を、イギリス人債務者と「価値のある貧者」が再出発する場所として考えていたが、債務者や受刑者はジョージアの組織化された開拓者の一部にはならなかった。植民地を設立するもう一つの動機は、スペイン領フロリダからイギリス領南部植民地を守るための「緩衝地」あるいは「守備地」とすることだった。また、サウスカロライナから自由を求めてフロリダに逃亡する奴隷をここで止める目的もあった。オグルソープは国境を守ることの出来る「したたかな農夫」が入植することを想定し、このために、植民地勅許では奴隷制を禁止していた。
設立
1733年2月12日、オグルソープは最初の開拓者達を伴ってヤマクローブラフに到着し、ここが後にサバンナ市になった。この日は今でもジョージアの日として祝われている。先住民族のヤマクロー族の集落がこの地域にあったが、オグルソープが先住民族の立ち退きを調整した。ジョージア植民地設立の目的は債務者に安全な住み家を提供することだったが、この目的が充足されることはなく、当初の開拓者、男女子供合わせて116人が選ばれたが、この中には債務者や受刑者は含まれていなかった。
当初の勅許は植民地の領土としてサバンナ川とアルタマハ川の間の地域を上流水源(アルタマハ川の水源はオクマルギー川である)まで伸ばし、さらに「海から海まで」西方に伸びていた。この勅許に含まれた地域は元々カロライナ植民地の勅許の一部であり、ジョージアとの関係は密接だった。サウスカロライナはこの地域の支配権を得ることはなかったが、ヤマシー戦争の後で、敗北したヤマシー族の少数の集落を除きジョージア海岸からインディアンが消えた。残ったヤマシー族はフロリダで依然敵対的であるヤマシー族やクリーク族と区別するためにヤマクロー族と呼ばれるようになった。
発展
イギリス枢密院が1732年6月9日に勅許を完成させ、次の20年間は議会からの毎年の交付金によって信託委員会が植民地を統治した。しかし、多くの問題点やオグルソープが植民地を離れたこともあって、信託委員会では領主植民地を運営できないことが分かり、勅許が切れる1年前の1752年6月23日、植民地を王室に戻す譲渡証書を発行した。1755年1月7日、ジョージアは正式に信託植民地であることを止め、王室領植民地となった。
1732年から1758年、小さな地方区分として地区と町があった。1758年、ジョージア植民地は8つの郡に分割され、1765年にはさらに4郡が追加された。1777年、ジョージア邦として最初の8郡が創設された。
実際のところ、植民地の開拓はサバンナ川周辺地域に限られていた。植民地西部はアメリカ独立戦争の後までクリーク族インディアンによって支配されたままだった。
当初から植民地開拓は緩りとした速度で始まった。オグルソープは酒類を許さず。植民地人は200エーカー (0.8 km2)以上の土地を持つことを許されなかった。人々が不満を抱くようになったので、オグルソープは最終的に規則を曲げ、植民地の成長速度が速まることになった。
奴隷制は1749年から認められた[1]。内部では、特にスコットランドからの開拓者の間に反対があった[2]。しかし、独立戦争の頃までに、奴隷制に関してジョージアは南部の他の地域と同じような状態になった。
1802年、ジョージア州はその西部領土を連邦議会に譲渡した。この領土はミシシッピ準州となり、さらに後に(隣接する土地を加えて)アラバマ州とミシシッピ州になった。
脚注
関連項目
参考文献
- Coleman, Kenneth (1976). Colonial Georgia: A History. Scribner. ISBN 0-684-14555-3
- Hawke, David F. (1966). The Colonial Experience. Bobbs-Merrill Company. ISBN 0-02-351830-8
外部リンク
- LOC: Establishing the Georgia Colony 1732-1750
- Carl Vinson Institute of Government, University of Georgia: Georgia History
- Sir John Percival papers, also called: The Egmont Papers, 1732-1745. University of Georgia Hargrett Library.
- Diary of Viscount Percival afterwards first Earl of Egmont. University of Georgia Hargrett Library.
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「Province of Georgia」の例文・使い方・用例・文例
- Microsoftがβ版をランチするのは「NetShow streaming server」で動画や音声をオンデマンドで提供する。
- 《主に米国で用いられる》 = 《主に英国で用いられる》 an admiral of the fleet 海軍元帥.
- 篏入的 r 音 《英音の India office /ndiərfɪs/の /r/の音》.
- =《口語》 These kind of stamps are rare. この種の[こういう]切手は珍しい.
- (英国の)運輸省. the Ministry of Education(, Science and Culture) (日本の)文部省.
- は of の誤植です.
- を off と誤植する.
- あいまい母音 《about, sofa などの /ə/》.
- 副詞的小詞 《on, in, out, over, off など》.
- 迂言的属格 《語尾変化によらず前置詞によって示す属格; たとえば Caesar's の代わりの of Caesar など》.
- çon of garlic [humor]. それにはガーリック[ユーモア]がちょっぴり必要だ.
- 《主に米国で用いられる》 = 《主に英国で用いられる》 the Speaker of the House of Commons 下院議長.
- 《主に米国で用いられる》 = 《主に英国で用いられる》 the Committee of Ways and Means 歳入委員会.
- 初めて読んだ英文小説は“The Vicar of Wakefield”
- (違法罪―a sin of commission―に対する)怠惰罪
- 『each』、『every』、『either』、『neither』、『none』が分配的、つまり集団の中の1つのものを指すのに対し、『which of the men』の『which』は分離的である
- 『hot off the press(最新情報)』は『hot(最新の)』の拡張感覚を示している
- 『Each made a list of the books that had influenced him』における制限節は、リストに載った本を制限節で定義された特定の本だけに制限する
- 臨床的鬱病を治療するのに用いられる三環系抗鬱薬(商品名ImavateとTofranil)
- 『sunshine-roof』は『sunroof(サンルーフ)』に対する英国の用語である
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