JBCのIBF加盟以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 03:27 UTC 版)
「国際ボクシング連盟」の記事における「JBCのIBF加盟以前」の解説
JBCはIBFの存在に対して「団体の乱立は好ましくない」とする趣旨の意見を出していた。 日本でも1983年に日本支部のIBF日本が設立されたが、JBCは国内のプロ・ボクシングを統轄する組織は1国1コミッションという方針からその存在を認めず、一切の交流を断っている。 JBCではIBFに参加した選手およびトレーナーは、JBCの認定するライセンスを無期限停止すると云った厳しい対応をした。ただし、これは「1国1コミッションという方針」のもと、日本国内のみの処置で、IBFを認めている諸外国でライセンスを取得し、日本国内でタイトルマッチを行わなければ、ライセンスの剥奪は無い。しかし、まだこれを実行した選手は今の所実質いない(※唯一の例外として1995年11月12日に当時WBC・IBF統一王者だったサマン・ソーチャトロンに細野雄一が挑戦したケースがあるが、海外挑戦ということと、王座を奪取した場合IBF王座は即返上という条件で事実上黙認された。また、WBA・WBC・IBFの統一王者マイク・タイソンが日本で2度防衛戦を行った際は、管轄のJBCはあくまでWBA・WBCの2つのタイトルの防衛戦として扱ったが、IBFはこれを防衛戦と認めたため、記録上は3団体統一王座戦となっている)。2009年にWBA・WBC・IBF世界スーパーフライ級王者ビック・ダルチニアンがWBCを通じて長谷川穂積に対戦オファーを出していた際には、JBCも「世界王座統一戦に限り、未公認団体王者との対戦を認める」という意向を表明していたが、ダルチニアンが王座を失ったため実現しなかった。日本のジムに所属する選手では仙台ジム(のちの新日本仙台ボクシングジム)にて佐藤健太のリングネームで活動したエリック・チャベスがIBF世界ミニフライ級王座を獲得した経験がある。 辰吉丈一郎が網膜剥離のため、一時日本で試合が出来なかった頃、アメリカでライセンスを取得してIBF王座に挑戦してもいいと発言したことがあったが、その後国内で試合が出来ることになり、IBF王座への挑戦をしないまま今に至っている。また、亀田興毅も協栄ジムを離れてメキシコを拠点としていた時期にWBOとともにIBF王座への挑戦を視野に入れた報道がされていたが、こちらも国内復帰が認められたため挑戦に至らなかった。その後亀田ジム設立後の2008年に世界戦や挑戦者決定戦に出場可能かJBCに確認を行ったが、それら試合に出場した場合試合開催地の国内外を問わず、JBCから除名処分とすることを2008年12月26日静岡県熱海市で行われた総会にて発表した。亀田側は「JBCライセンスを放棄してまで挑戦する意向はない」と表明している。 なお、時折日本のジムに所属する選手がIBFの世界ランキングに入ることがあるが、これはIBFが勝手にランキング入りさせているだけだった。 ちなみに、アジア各国ではタイやフィリピン・インドネシアはIBFに加盟しており、韓国でも設立初期にはIBFに加盟していた。層の薄い軽量級では韓国人のIBF王者が何人も誕生したが、韓国人同士の世界戦の乱発や挑戦資格があるとは思えないほど戦績の悪い挑戦者との試合などによって、韓国内でも世界王座としてのIBFの権威に疑問が持たれるようになる。そこに『替え玉挑戦者事件』(当初挑戦するはずだった選手が、怪我で挑戦不可能となり、替え玉を立てて防衛戦を行った事件)が追い討ちをかけた。これにIBFも関与したことが判明した。それをきっかけに1987年限りで韓国はIBFを脱退、公式試合の団体としては認めていない(IBF地域タイトル戦のみが公認されている)。老舗のWBA・WBCの権威が低下する中、プロボクシングが公認されている国でIBFを認めていないのは、ほぼ日本・韓国・長らくWBCのみを世界王者認定団体として認めていたイギリスの3カ国だけになっていた。
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