JBCからの離脱
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2009年11月16日、JBCへ引退届を提出し受理された。2010年5月にはフィリピンのALAプロモーションと契約した上で、5月22日に海外進出第1戦としてフィリピン中部セブ島で同国ライトフライ級ランカーのジェイソン・ロトニーとノンタイトル10回戦を行う予定であったが、ロードワーク中の負傷により中止となった。 2010年9月1日、南アフリカ共和国ハウテン州ブラクパンでIBF世界ミニマム級3位のツシェポ・レフェレ(南アフリカ)とIBF同級9位として対戦。IBF世界ミニマム級挑戦者決定戦として行われたこの12回戦で6回TKO勝ち。同王座への挑戦権を獲得した。 2011年1月29日、ブラクパンでIBF世界ミニマム級王者ヌコシナチ・ジョイ(南アフリカ)に挑戦。第3ラウンドに偶然のバッティングによって高山が右側頭部をカットし、試合続行不可能と判断したレフェリーが試合をストップ。規定のラウンド数を消化していないため無効試合となり、王座獲得はならなかった。 2012年初頭にはIBF王座の獲得を第一目標に掲げ、WBO王座も獲得した後にライトフライ級へ転向してローマン・ゴンサレスにリベンジしたいと話した。山口賢一が主宰する大阪天神ジムで1月末まで下半身を強化した後、2月上旬からはセブ市にあるALAジムでスパーリング合宿を行った。 2012年3月30日、南アフリカのイースト・ロンドンでジョイと再戦したが、5回にスリップ気味のダウンをとられ、111-116が2者と110-117のユナニマス・デシジョンで勝利を逸した。高山は「序盤から終盤まで自分が試合を支配していた」と話し、Fightnews.com(2010年のWBAの年間最高ウェブサイト賞を受賞)は「満員の会場でリングサイドにいた観戦者の多くは判定が挑戦者支持であってもよかったという見方であった」と書いている。 2012年10月13日、フィリピンベンゲット州ラ・トリニダードでマテオ・ハンディグ(フィリピン)とIBF世界ミニマム級挑戦者決定戦を争った。この試合にはIBFパンパシフィックミニマム級王座も懸けられていた。高山はスピード、手数、攻撃性で上回ったが、序盤はハンディグが有効打でポイントを稼いだ。プッシングで1ポイントの減点を受けたことが結果的に敗因となり、フィリピン人ジャッジ2者が113-114、残りのタイ人ジャッジが115-112と採点する僅差で1-2の判定負けを喫した。ツシェポ・レフェレとの挑戦者決定戦からジョイへの2度の世界挑戦を通じて、ハンディグ戦までの経過は、それ以前の試合映像も含め、テレビ大阪の2度にわたるドキュメンタリー「彷徨う拳」として放送された。 しかしこのハンディグ戦については、前後に義務付けられていた薬物検査に不備があったとの理由で、無効試合とはならなかったものの挑戦権は宙に浮いた形となった。IBFは高山とハンディグに対し、2013年2月16日に同国・パラニャーケで改めて同王座への挑戦権を懸けて再戦することを指示していたが、これはハンディグの負傷により消滅。IBFは3月末までとした期限内での挑戦者決定戦実施が不可能となったことで高山の挑戦資格を認めた。
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