2020年代の活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 03:25 UTC 版)
2020年2月11日に野村克也が死去すると、江本はその追悼番組に多数出演し、また雑誌など各種メディアの取材に応じて野村との思い出を語るとともに「南海ホークスの野村克也」を記憶にとどめるための活動に力を注いだ。 南海の本拠地・大阪球場の跡地に建てられた複合施設であるなんばパークスには、2003年のオープン当初から「南海ホークスメモリアルギャラリー」という観覧無料の展示施設が存在し、南海ホークスで活躍した多数の選手を写真・映像・展示資料を用いて紹介しているが、開設から18年間は野村の事績を一切取り上げていなかった。このような展示を余儀なくされた背景には沙知代の妨害があった。江本を南海退団へと追い込んだ沙知代であったが、1977年9月には沙知代の度重なる現場介入(公私混同)を理由として野村が電撃解任されたことにより、沙知代もまた南海から追放された(野村は解任後の翌1978年1月に本妻との離婚が成立し、同年4月に沙知代と再婚)。これを恨む沙知代はこの施設を「かつての南海ホークスの栄光をとどめようという女々しい考え」によるものと嘲り、開設にあたって電話で南海電鉄から野村家に展示許可の要請があった際に、独断で要請を拒絶し、野村もこれを追認したために、同ギャラリーの展示は肖像権を理由として野村について一切言及することが出来ない状態になっていた。2017年12月に沙知代が死亡すると、江本は展示の許可を与えるよう繰り返し野村を説得したが、野村は展示拒否の意思を撤回することなく死去してしまい、そのため南海電鉄側も『東京スポーツ』の取材に対し、故人の意思を尊重して今後も展示の許可を求めるつもりはないと回答していた。 この状態を憂いていた江本は、野村の没後に遺族の野村克則から展示の承諾を取り付けて肖像権の問題を解消すると、野村関連の展示実現に向けて南海電鉄との折衝を重ね、同年11月に、野村に関する資料を新たに展示する形でギャラリーを全面的にリニューアルする「おかえり!ノムさん大阪球場に。」と銘打った南海電鉄やサンケイスポーツとの共同プロジェクトの立ち上げに成功した。。同プロジェクトの運営を担う実行委員会には南海電鉄とサンケイスポーツに加え、ギャラリーが所在する大阪市が後援団体、野村の出身地である京丹後市が協力団体として名を連ねた。またリニューアル関連の経費はクラウドファンディングで賄うこととし、2021年1月11日を期限として2,000万円を目標に出資を募ったところ、2,388人の出資者から目標額の倍以上の計4,354万1,500円の出資金が寄せられ、リニューアルの実現に至った。2021年2月14日に催されたリニューアル記念セレモニーでは、江本は野村の孫(克則の長男)と共に野村時代の1975年から1976年まで使用されたホーム用ユニフォームのレプリカを着用して登壇し、2階のキャニオンストリート(大阪球場のピッチャーズプレートとホームベースの位置を示す記念プレートが埋められているオープンスペース)で、二人で「メモリアルピッチ」を披露した。同日以降は、資料映像、チームの歴史年表と「往年の名選手」の写真パネルに野村の姿が加わり、1977年に野村が実際に着用したホーム用ユニフォームなどの克則から寄贈された各種資料も一般展示に供されたほか、江本が最後を抑えた1973年リーグ優勝決定時の野村の胴上げ写真がリニューアルされたギャラリーの外壁を飾った。
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