2人の動向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 07:42 UTC 版)
「北九州市病院長殺害事件」の記事における「2人の動向」の解説
このように、SやYの潔白を証明する証拠は出てこなかった一方、2人への疑念を強める証拠が次々と出ていたことから、事件から約1か月が経過した12月15日に開かれた特捜本部幹部会は「(犯人は)SとYに間違いない」と確認した。同月21日には、福岡・大分両県警の捜査本部が福岡市内で初の合同捜査会議を開き、情報交換の一掃の緊密化を確認した。しかし、この時点では決定的な物証どころか、「完全犯罪」を狙ったことを窺わせる犯行の動機も、2人の身辺からは浮かんでこなかったため、強制捜査に踏み切ることはできず、同月23日には田中新太郎(工藤会田中組組長)殺害事件(後述)が発生したこともあって、捜査員の疲労は日ごとに増していった。 一方、洗濯ネームの「S」という苗字から、2人の存在が浮上して以降、報道陣が「ピラニア」を訪れ、Yから四国旅行の目的などを聞き出そうとするようになったが、2人は自分たちに嫌疑が掛かっていることを知り、事件発生から別件逮捕までの約100日間にわたり、互いに口裏合わせをしたほか、知人たちとのアリバイ工作を図った。Sは逮捕前、朝日新聞西部本社の記者に対し、「11月5日は自分の店に1日中いた」と話し、12月ごろには、自宅に来た記者に対し、約3時間にわたって潔白を主張し、同席した妻もそれに相槌を入れていた。しかし、1980年に入ったころには、Sの主張する「アリバイ」とは異なり、11月5日の12時50分ごろには「ホテルニュー田川」と「ピラニア」の中間地点の駐車場付近に、Sの車が駐車してあったことや、その約3時間後には「ピラニア」の前にその車が回されていた可能性があることなど、不審点が判明していた。 同年11月末、話し好きなYが報道陣に対し、多くを話してしまったことを知ったSは、電話でYに対し「いらんことをしゃべるな」と注意した上で、「気分がむしゃくしゃするから、飛行場(北九州空港)にカラス撃ちに行こう」と提案した。しかし、「1人で行ったら、Sに殺されるのではないか」と考えたYが、翌日に女友達を連れてやってきたため、Sは激怒し、カラスを撃てなかった八つ当たりとして、Yに散弾銃の銃口を向け「ぶっ殺してやる」と凄んでいた。また、Yが取材を受けていた際に突然Sが報道陣の前に現れ、「俺が話すから、これからYに近づくな」と抗議してきたこともあった。一方、2人は報道陣に対し、「(Aが)殺されたのは5日でなく7日」と言ったり、知人たちに「5日・6日生存説」を吹聴したりしていた。また、Yは知人らに対し、極度に憔悴しながら「警察に逮捕される」と話していた一方、携帯無線機で警察無線を常時傍受し、常にSと行動をともにするようになり、Sもゴミ出し日(12月13日)に自宅から出したゴミを(毛髪を入手しようとした)捜査員が収集したことを把握し、次のゴミ出し日からゴミを出さなくなった。 捜査本部内部では当初、「早く2人を逮捕すべきだ」という声も上がっていたが、当初は決め手になる物証を欠いていたため、慎重に調べを進めて容疑を固めようとしていた。しかし、1980年に入り、S・Yの両者と報道関係者とのやり取りが活発化し、2人が証拠隠滅やアリバイ工作をする危険性が強まったため、2月には「これ以上の(逮捕の)延期は、一線の士気に関わる」「早く逮捕しなければ、2人のガードは固まるばかりだ」という声が上がり始めた。一方、2人が10月18日、新北九州信金曽根支店への恐喝未遂事件を起こしていたことが判明。2月16日、石村義富捜査本部長(小倉北署長)が県警本部に出向き、本部刑事部長との協議を行った結果、別件の恐喝未遂容疑と、本件の死体遺棄容疑の両方の資料が揃い次第、2人を逮捕することが決まった。 一方、Yは逮捕の2日前(2月27日)の早朝、自殺するつもりで若戸大橋の上をうろついていたが、寒い中で2時間近くも橋上をうろついていたことを不審に思った日本道路公団若戸大橋管理事務所の職員から声を掛けられたため、自殺を断念して帰宅した。自殺を考えた理由について、Yは取り調べに対し、「店に出ても面白くないし、客も疑いの目を向けてくる。Sからも『あまりしゃべるな』と口うるさく言われるので死のうと思った」と述べている。
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