松本の自由民権運動
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1874年(明治7年)の民撰議院設立建白書で高まり始めた自由民権運動・国会開設要求は、長野県にも波及した。上条螘司は、1879年(明治12年)11月20日、松沢求策・市川量造・三上忠貞とともに、運動を進めるために、結社を設立しそれを人々の結集の軸にしようと相談をした。これが、奨匡社設立への第一歩となった。1880年1月には規則・檄文が起草され、2月1日に親睦会が開かれて奨匡社が発足した。4月11日には松本南深志町の寺に745名の参会者を集めて大会が行われた。 1880年5月21日、上条と松沢求策は、長野県2万1535人の総代として「国会開設ヲ上願スルノ書」を持って松本を出発した。2人は5月から7月にかけて、太政官に対して15回にのぼる波状的なねばり強い請願を続け、元老院にも4回の請願を行った。7月9日には岩倉具視に会い、人民に請願権があることを力説した。この請願運動は成功しなかったが、2人の動向は新聞で報道され、国会開設の世論を盛り上げた。
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