松本の失敗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 05:44 UTC 版)
1901年から1902年の恐慌に際して、重太郎関係の企業のうちいくつかは深刻な営業不振に陥り、百三十銀行の経営に悪影響を与えることになった。その中で特に深刻であったのは、日本紡織で、同社は製品品質が劣っていたことや、大きなウェイトを占めた中国市場での販売不振から経営不振となり、これを百三十銀行からの融資で糊塗していたのである。1904年6月に百三十銀行が破綻するときには、同行から日本紡織への融資は170万円余にのぼり、そのほとんどは不良債権化していた。また百三十銀行は頭取松本重太郎自身あるいは、洋反物商松本商店へも巨額の融資を行っていた(合計165万円余)。恐慌で洋反物商も大きな打撃を受けたが、松本商店も例外ではなかった。重太郎関係企業に対する融資で、重太郎が債務保証をしていたものも少なくなかった。やはり百三十銀行破綻当時に、重太郎への融資124万円余が焦げ付くにいたった。これらは百三十銀行本店で生じた不良債権であったが、京都・福井・門司などでも多額の融資焦げ付きが生じるようになり、1904年6月、休業に追い込まれ、その再建は政府の特別融資を受けた安田善次郎の手に委ねられた。こうして重太郎は百三十銀行に101万円余を弁済した上で、同行頭取のみならず関係していた会社から一切退いた。 百三十銀行の蹉跌の原因は第一に、頭取松本が同行を自分が関係している事業の金融機関として利用したことにあった。また重太郎の考えにそって「人物の堅実にして、手腕と技量と共に優秀なりと認めた者には、その担保品の有無は敢えて甚だしく問う所なく、巨額の財を賃与したる」という人物本位の融資方針をとっていたといわれる。また同行は取引が「敏活」で大阪の商家には人気があったといわれる。しかし松本重太郎の企業者活動を通して、大阪紡績(現・東洋紡績)、南海鉄道(現・南海電鉄)、山陽鉄道(現・JR西日本)、日本火災保険(のちの日本火災海上保険、現SOMPOホールディングス/損害保険ジャパン)、大阪麦酒(現・アサヒGHD/アサヒビール)など、松本がつくった企業はいまなお活躍を続けている。また百三十銀行を通じて行った融資によって発展の礎を築いた企業も少なくない。その意味で、松本重太郎はベンチャービジネスのエンジェルでもあった。百三十銀行の破綻後、松本は隠居し、その整理が済んだ後も、再び実業界には戻らなかった。豪壮な堂島の本邸を引き払い、上本町の仮宅に篭居したのち、出入りの大工が提供した住居で老後を送った。69歳で癌により死去。 墓は高野山・奥ノ院参道にある。
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