1988-2006 キューバ
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「アナ・デ・アルマス」の記事における「1988-2006 キューバ」の解説
1988年4月30日にキューバのハバナで生まれ、サンタ・クルス・デル・ノルテという小さな街で育った。父親のラモンはソビエト連邦の大学で哲学を学んだ後、銀行の支店長や教師、学校の校長、町の副市長などの様々な職に就いていた。母親のアナは教育省で人事の職に就いていた。ハビエルという兄がおり、ニューヨークを拠点に写真家・録音技術者として活動している。一家はキューバでは決して裕福な家庭ではなく、経済危機が起こった際には食糧を配給に頼ったり、燃料不足や停電を何度も経験したりしたという。客観的に見れば苦労の多い幼少期を過ごしているが、アナ本人は幸せな時期だったと語っている。 10代の頃はインターネットへのアクセスができず、キューバ以外の大衆文化についての知識が乏しかった。ただ、土曜日の20分のアニメと日曜日の昼の映画は見ることが出来ていた。家族はビデオデッキやDVDプレーヤーを持っていなかったため、アパートメントの隣人の部屋でハリウッド映画を見ていたという。当時好きだった映画は『ジョーズ』。映画を見終わると鏡の前で作中のセリフを練習しており、12歳の頃には女優になることを決意していた。2002年、14歳の時にキューバ国立演劇学校のオーディションに見事合格し、入団することになった。しかし、車やスクールバスのような通学手段がなかったため、時にはヒッチハイクで通学し、厳しい授業に参加していたという。 アナは在学中に3本の映画に出演した。その中には『カリブの白い薔薇』(2006年)がある。彼女はこの映画で主役を務めた。この役が決まったのは、キューバの俳優ホルヘ・ペルゴリアが自分の娘たちの誕生日パーティーに出席した際にアナと出会い、上記の映画の監督に彼女を主役として検討するように提案したことがきっかけである。監督はアナが通う演劇学校を訪れ、16歳の彼女に配役の決定を伝えた。この映画のプロモーションツアーでスペインを訪れた際には、後にスペインでのエージェントとなるフアン・ランハを紹介されている。その後、フェルナンド・ペレス監督のドラマ『El edén perdido』(2007年)で脇役を演じる。このドラマでは演劇学校の講師の許可を得ずに、夜間に行われた撮影に参加した。このようにキューバにおいて一見順調な女優としてのキャリアを積んでいたアナであったが、彼女は卒業論文を発表する数ヶ月前に、4年間の教育課程を全うすることなく演劇学校を辞めた。キューバの学生は卒業後3年間の社会奉仕活動を義務付けられており、これを終えない限りは出国することが禁じられているためである。自主退学の後、アナは18歳のときにスペイン人の母方の祖父母を頼りにスペイン国籍を取得し、俳優としてのキャリアを求めてマドリードに移住した。
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