1961年、ハプスブルク危機
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「オットー・フォン・ハプスブルク」の記事における「1961年、ハプスブルク危機」の解説
1960年代初期のオーストリアでは、オットーの帰還が政界を支配した問題であった。当時のオーストリアにおいて国内に大きな騒ぎをもたらした論争は、オットーの帰還問題ただ一点のみだった。いわゆる「ハプスブルク危機(Die Habsburg-Krise)」である。オットーの帰還の是非をめぐって、最終的には大連立政権が崩壊することとなる。 1960年代のオーストリア警察は、「共和国の敵」が国内に侵入したのではないかと疑って、複数の機会にオットーを捜索している。 ハプスブルク家の構成員は、ハプスブルク法を受諾すれば帰国することができた。1958年2月、オットーは「オーストリア国家市民としてオーストリアの現行の法律を承認し、『共和国の忠実な市民』となる」と宣言した。しかし、当時の首相ユリウス・ラープ(ドイツ語版)(オーストリア国民党)は、オットーの帰還によって左派が急進化することとオーストリア国民党が分裂することを恐れ、「ハプスブルク家の人間であること、およびそれに伴う支配権要求を放棄する旨が明確に述べられていない」という口実でオットーの宣言を却下した。 1961年7月、オットーは弁護士を通してオーストリア帝位請求権の放棄を宣言した。これを受けての内閣評議会では79対78と賛成・反対意見がほぼ均等に分かれ、ただ単に合意形成には至らなかったことを記録するに留まり、結論は出さなかった。1963年5月24日、行政裁判所はオットーの宣言を認定した。にもかかわらず、オーストリア社会党とオーストリア自由党はオットーの帰還を承認しないと表明した。1963年7月にオーストリア内務省は、オットーがスペイン外交官パスポートしか所有しておらずオーストリアのパスポートは持っていないため、入国は認めないとする通達を公安監督局や連邦警察に出した。これにはオーストリア社会党の圧力があったとされる。 最終的に、王党派を支持層のひとつに抱えるオーストリア国民党とオーストリア社会党による大連立政権は崩壊した。オットーは国民党にとってより楽な状況を作るべく、新しい選挙がおこなわれるまではその問題を強く推進しないことに国民党と同意した。1966年6月1日、オットーはようやく正規のオーストリアのパスポートを入手した。同年8月11日、オットーがオーストリアに入国したとの誤報が広まり、翌日ウィーンに「社会主義学生同盟」の抗議運動が組織された。同年10月31日、オットーはインスブルックを短期間訪問したが、これは社会主義系の新聞には「8月の訪問に対する反応を見ての慣らし作戦」と報じられた。社会党は、大部分の国民はオットーの入国を望ましいとは考えておらず、こうした危険を招いたのは国民党政府の責任であると非難した。オットーは1967年にオーストリア入国を果たしたが、その時は国民党の単独政権であった。なお、この後にもオットーに対する左派陣営の反発は続き、卵を投げつけられたり暗殺を予告されたりした。 自分は恐喝された、しかし私の署名は有効である。私は支配権あるいは財産要求はしない。 — 1997年、自分の宣言について なお、ハプスブルク法を受諾した後もオットーは、オーストリア帝位継承権は放棄したもののハンガリー王位はその限りではないとして、自らハンガリー国王を称することがあった。
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