1930-1950
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「ストックポート・カウンティFC」の記事における「1930-1950」の解説
1930年代の初めから、ストックポート・カウンティはホームで白と黒のストライプ柄のユニフォームでプレーし、「リリー・ホワイト」という愛称がついた。1934年1月6日、ホームでのハリファクス・タウン戦で、13-0というスコアで勝利した。この試合はジョー・ヒルのデビュー戦であり、彼は前半で2得点をあげ、後半6分にハットトリックを達成した。また、パーシー・ダウンスもこの試合で4得点をあげ、注目を集めた。この記録的な大勝はフットボールリーグの最多得点試合記録にも残っている。この大勝をしたシーズンである1933-34シーズンでアルフ・リトゴエは46得点をあげ、この記録は今でもクラブの最多記録である。リーグ戦は3位という成績であった。またこのシーズンでは、FAカップの2回戦でクリスタル・パレスにホームで1-2で敗北したのだが、この試合はテレビで放送されていた。 1935年、当時木製であったエッジリー・パークのメインスタンドが全焼し、1935年以前のストックポート・カウンティの記録が全て失われてしまった。これにより、スタジアムの重要なメインスタンドの再建のみならず、クラブの今までの歴史の記録を集めなければならなかった。火災の1年後にメインスタンドは再建され、当時のフットボールリーグ会長であったチャールズ・サトクリフによって正式に開場された。この時再建されたメインスタンドが、現在のメインスタンドである。1936-37シーズン、クラブはサードディビジョン・ノースで23勝を上げ、勝ち点60で優勝した。勝ち点が57で同じの中、最終節がタイトル決定戦となったリンカーン・シティ戦には27000人以上の観客が詰めかけた。この時までクラブは10試合負けなしで、そのうち7試合で勝利していた。しかし、昇格した次のシーズン、セカンドディビジョンで勝ち点を31しか得られずに22チーム中最下位となり、1年での再降格となった。 1939-40シーズンはイギリスの宣戦布告によって中止され、第二次世界大戦が終わるまで開催されることはなかった。これは、イギリスの成人男性のほとんどが軍隊に召集されたからである。ストックポートは、1939-40シーズンで2試合だけ試合をしたが、どちらも敗北し最下位であった。このリーグ中断を受けて、その代わりに地域別のリーグ戦が実施されたが、このリーグの成績は公式記録にはカウントされていない。戦争の進行によって選手の多くが戦場に行き、多くのクラブが試合実行を諦めた。その中で残ったクラブは、ゲストの選手を起用して人数を補い、試合をした。FAカップも続行が難しくなり中断された。その代わりにフットボールリーグ・ウォー・カップが開催された。 第二次世界大戦勃発後の最初の「ウォー・リーグ」では、ストックポートは29試合を戦い、「ノーザン・リージョナル・リーグ」で総合35位となった。リーグの順位は、総得点数を実施した試合数で割った平均得点数で決められ、ストックポートは、他のチームよりも多く試合をしていた。戦争が終わった後の1945-46シーズン、リーグ戦はまだ再開されなかったが、FAカップは再開された。ストックポートは、このFAカップの1回戦でロッチデールAFCと対戦し、3-2で敗れた。同じく1945-46シーズンに、ストックポートはリーグ3・ノースカップで、ドンカスター・ローヴァーズFCとの試合をホームで開催した。この試合は、試合時間が総計203分という、プロサッカー史上最長の試合として歴史に名を残すことになる。延長戦のシステムが無かったため、再試合を決着がつくまで行ったのである。結局ストックポートは、2回目の再試合で0-4で敗れた。その後、戦後初めてのリーグ戦が開催された1946-47シーズンでは、ストックポートは戦前と同じフットボールリーグ・サードディビジョン・ノースで戦い24勝、勝ち点50で4位となった。
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