19世紀の移民の流入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/27 21:08 UTC 版)
「ポンセ (プエルトリコ)」の記事における「19世紀の移民の流入」の解説
1800年代初期、ポンセは島に多く点在する村落の一つにすぎなかった。居住者は農業、牧畜や異国との密輸によって生計を立てていた。しかし、1820年代に起きた3つの変化により、街のサイズは急劇に大きくなった。1つ目の変化は、1792年から1804年の間に起きたハイチ革命から逃れてきた、多くのフランス人がやって来たことである。この動きは1820年代までそれほど重要では無かったが、フランス人企業家 (Entrepreneur) は、ポンセでのサトウキビを生産するために重要な、平らで広大な土地と十分な資本、奴隷、周辺との商業的な繋がりに目をつけた。2つ目の変化は、1810年から1820年代にかけて、中南米諸国がスペイン帝国から独立し、帝国の衰退によって、これらの国から(特にベネズエラ)から家主や商人がやって来たことである。3つ目の変化は1815年のスペイン国王令である。この王令は、政治的にスペインと友好的な国の市民が、カトリックに改宗し農業に従事すれば、プエルトリコへの移住を許可されるというものであった。これらの変化によって生じた集団的な移住により、街の大きさが巨大になっただけでなく、住民の性格そのものも変化させた。街が成長した結果、1848年7月29日、イサベル2世によって、ポンセ村落 (Hamlet) は、村 (Village) となることが宣言され、1877年にポンセは都市憲章を得た。 1815年の王令で、経済が強化されただけでなく、ヨーロッパからの大量の移民が生じることとなった。英国、フランス、ドイツや東部スペインのカタルーニャ地方、バレアレス諸島などから移民が押し寄せた。移民にはキューバ、コロンビア、ベネズエラの独立革命から逃れてきた裕福なスペイン人もいた。 これらの移民には、コーヒー、とうもろこし、サトウキビの栽培や、ラム酒、あるいは銀行や金融業、工業製品の輸入、鉄の鋳造などで財を成す者がいた。1898年にアメリカ人が島に侵入してきた際、ポンセはプエルトリコ最大の街であっただけでなく、 (1827年から) 島の主要な金融センターであり、他の島との最初の通信回線 (1875年) や金融機関、独自の通貨を所有していた。イングランド、ドイツ、オランダなどの領事館も存在した。
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