19世紀の自治体構成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/03 14:04 UTC 版)
「ベルリンの行政区」の記事における「19世紀の自治体構成」の解説
シュタイン=ハルデンベルクの改革の一環としてプロイセン都市条例が導入されると、自治体としてのベルリンの行政機構も抜本的に刷新された。市民の自治という要素が初めて導入された。新しい都市条例は、規模の大きな都市を数千人規模の「区 (Bezirk)」に区画することを意図していた。区には区長(Bezirksvorsteher, 名誉職、無給)、仲裁人 (Schiedsmann)、貧民救済委員会、孤児救済委員会が置かれた。区長はプロイセンの三級選挙(ドイツ語版)によって選ばれたが、基本的には地域の名士であった。ベルリンは当初100区に分けられ、それぞれに区名が付けられた。例えば「ハレッシェス=トーア(ドイツ語版)区」、「シュピッテルマルクト(ドイツ語版)区」、「モンビジュー(ドイツ語版)区」といった具合である。 区の数は人口増加に応じて増えていった。1861年に市域が拡大すると全270区となった。もはや区名は付けられず、連番が振られるのみとなった。1884年には区画が改められ計326区となり、1920年に大ベルリンが成立するまでに450区以上に膨張した。 これらの区は「市区 (Stadtteil)」へと集約されていったが、市区レベルには有意な自治体組織が置かれていなかった。それまでの市区は10区あったが、19世紀中にさらに増加した。フリードリヒ=ヴィルヘルム=シュタット(ドイツ語版)は、1828年にシュパンダウアー・フォアシュタットから離れ、以来別個の市区となった。1829年から1841年にかけて市域が拡大すると、北部にはローゼンターラー・フォアシュタット(ドイツ語版)とオラーニエンブルガー・フォアシュタット(ドイツ語版)が、また南西部にはフリードリヒスフォアシュタット(ドイツ語版)が成立した。 1861年にはヴェディング(ドイツ語版)、ゲズントブルンネン(ドイツ語版)およびモアビート(ドイツ語版)、テンペルホーファー・フォアシュタット(ドイツ語版) 、シェーネベルガー・フォアシュタット(ドイツ語版)が編入され、これまでで最大規模の市域拡大となった。編入地域の一部には既存の市区が広がっていった。こうしてルイーゼンシュタット、ケーニヒスシュタット、シュトラーラウアー・フォアシュタットは旧来の境界を越えて拡大した。大ベルリン成立前の編入合併としてはこの他に、1881年のグローサー・ティーアガルテン、1878年の中央家畜市場 (ベルリン)(ドイツ語版)敷地、1915年のプレッツェンゼー(ドイツ語版)領地区域の一部、レーベルゲ(ドイツ語版)があった。 1884年の公式区分では以下の21市区があった。 ベルリン(ドイツ語版) アルト=ケルン(ドイツ語版) フリードリヒスヴェルダー(ドイツ語版) ドロテーエンシュタット(ドイツ語版) フリードリヒシュタット(ドイツ語版) ウンテレ・フリードリヒスフォアシュタット(ドイツ語版) シェーネベルガー・フォアシュタット(ドイツ語版) オーベレ・フリードリヒスフォアシュタット(ドイツ語版) テンペルホーファー・フォアシュタット(ドイツ語版) ルイーゼンシュタット・イェーンザイツ・デス・カナールス(ドイツ語版)(=運河より向こう側) ルイーゼンシュタット・ディースザイツ・デス・カナールス(ドイツ語版)(=運河よりこちら側) ノイ=ケルン(ドイツ語版) シュトラーラウアー・フィアテル(ドイツ語版) ケーニヒスフィアテル(ドイツ語版) シュパンダウアー・フィアテル(ドイツ語版) ローゼンターラー・フォアシュタット(ドイツ語版) オラーニエンブルガー・フォアシュタット(ドイツ語版) フリードリヒ=ヴィルヘルム=シュタット(ドイツ語版) ティーアガルテン(ドイツ語版) モアビート(ドイツ語版) ヴェディング(ドイツ語版)およびゲズントブルンネン(ドイツ語版)
※この「19世紀の自治体構成」の解説は、「ベルリンの行政区」の解説の一部です。
「19世紀の自治体構成」を含む「ベルリンの行政区」の記事については、「ベルリンの行政区」の概要を参照ください。
- 19世紀の自治体構成のページへのリンク