19世紀の郊外路線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/13 01:35 UTC 版)
「RER (イル=ド=フランス)」の記事における「19世紀の郊外路線」の解説
パリと郊外を結ぶ鉄道は19世紀半ばに相次いで開業したが、これらのターミナル駅は方面別、会社別に分かれており、当時のパリ市街の周縁部に位置していた。ターミナル駅と都心部との連絡やターミナル駅相互間の乗換は乗合馬車や馬車軌道、路面電車に頼っていた。19世紀末になるとこれらの交通機関の混雑が問題となり、特に1889年の万国博覧会では大きな課題として残った。1900年の万博を控えて、パリ市内に新たな鉄道路線を建設する案がいくつか提案され、その中には郊外路線を地下線や高架線で中心部まで乗り入れさせ、相互に直通させるというものもあった。 1895年にはパリ・オルレアン鉄道の郊外路線の一つソー線(現RER B線の南部)がパリ南部のダンフェール=ロシュロー駅から中心部に近いリュクサンブール駅まで乗り入れ、この結果ソー線の利用者は約30%増加した。続いて1900年にはパリ・オルレアン鉄道がオステルリッツ駅からオルセー駅へ、西部鉄道がシャン・ド・マルス駅からアンヴァリッド駅へ(ともに現RER C線の一部)と延伸された。ただしこれらの3路線は相互に接続されてはいなかった。またこれら以外の郊外路線の都心部への乗り入れは行われず、市内の交通は独立した路線網であるメトロによって担われることになる。
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