19世紀の近代的な大クロアチア主義の起こり
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「大クロアチア」の記事における「19世紀の近代的な大クロアチア主義の起こり」の解説
近代的な大クロアチアの概念は19世紀にさかのぼり、1878年のオーストリア・ハンガリー帝国によるボスニア・ヘルツェゴビナ併合以前からあった。これはクロアチアの右翼政党と結びついていた。たとえば、右派の新聞「Hervatska」は次のような記事を書いている。 クロアチア国家の歴史的・民族的に正当な拡張された領土はドイツからマケドニアの間、ドナウ川からアドリア海にわたって広がり、それぞれ分断され個別の名をもつ各地域、スティリア南部、カリンシア、クラニスコ(スロベニア中部)、ゴリツィア、イストリア、中央クロアチア、スラヴォニア、クライナ、ダルマチア、アルバニア北部、モンテネグロ、ヘルツェゴビナ、サンジャク、セルビアの唯一の正当な名称は「クロアチア国家」である。その領土は4千平方マイル以上にのぼり、人口は8百万人に達する。 — 「何が真のクロアチアの政治で、誰がその代表者か」(1871年 No. 6) 「Hervatska」紙の主張は、クロアチア民族内において決して特別に急進的なものではない。1869年にエウゲン・クヴァテルニク(Eugen Kvaternik)はドン・ミホヴィル・パヴリノヴィッチ(don Mihovil Pavlinović)に手紙を書き、「クロアチア国家と歴史的権利」に従いクロアチア権利党の政策を完遂すれば、ドラーヴァ川からアドリア海までではなく、ザルツブルク・アルプスからアルバニアおよびコソボまでの領域に純粋で穢れなきクロアチアの国旗がはためくだろうと述べた。 アンテ・スタルチェヴィッチ(Ante Starčević)が創設したクロアチア権利党の支持者であるクロアチアの作家、ジュロ・デジェリッチ(Đuro Deželić)は1879年に「クロアチア民族」あるいは「クロアチア人の魂」という本を出版し、その中でクロアチア人が住み、従ってクロアチアの土地である地方は「現在のダルマチア全域およびコトル湾・トルコ領クロアチア(en)を含むボスニア・ノヴィ・パザル・パシャリク(サンジャク地方)、1789年のアンゲルの本でトルコ領ダルマチアとして言及された現在のヘルツェゴヴィナ地方・そしてモンテネグロとアルバニア北部である」とした。 ボスニア・ヘルツェゴビナを編入する野望の実現への望みから、1878年8月28日クロアチア議会は皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に宛てた手紙の中で「時間の流れにより、ボスニア・ヘルツェゴビナはクロアチア・スラヴォニア・ダルマチア王国の統治下へと引き渡されるべきである」と述べて、ボスニア・ヘルツェゴビナがクロアチアの一部となることへの期待を示している。 クロアチアの拡張主義者の野心は1893年11月に起草されたクロアチア権利党の綱領にも現れている。この綱領の最初の項では、 クロアチア国家と自然的権利は、ハプスブルク領内にあるクロアチア・スラヴォニア・ダルマチア・リエカ・メジュムリェ(Međumurje )・ボスニア・ヘルツェゴビナ・イストリア・クラニスコ・カリンシア・スティリアの全域がクロアチア王国に復することによって復旧されるべきである。 としている。クロアチア権利党によれば、国土には3種類があるとされる。 国土が実際の領域によって形作られる、中央クロアチアとスラヴォニア、リエカ周辺を含む区域。 仮想的な主張と呼ばれる、メジュムリェ・ダルマチア・クヴァルネル諸島(ダルマチア諸島)・イストリアの一部・ボスニア北西部を含む地域。 「クロアチア国家と自然的権利」に基づくクロアチア民族主義者の主張に含まれる地域。 クロアチア権利党の1893年の綱領では、右翼主義者によりボスニア・ヘルツェゴビナ全域とカリンシア、スティリアが含められた。この「3種類の国土」のいずれにおいても、たとえばボスニア・ヘルツェゴビナ、ヴォイヴォディナ、スロベニアの一部やモンテネグロに関して、クロアチアの民族主義者たちは歴史的、自然的、民族的、地理的、経済的、地理的などさまざまな根拠を挙げた。
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