19世紀の科学メディア
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「サイエンスコミュニケーション」の記事における「19世紀の科学メディア」の解説
メディアの制作形態は19世紀に変化を遂げた。蒸気機関による印刷機が発明されたことで、時間当たりに印刷できるページ数が増大し、印刷物が安価になった。書籍の価格は徐々に下がって労働者階級でも手が届くようになった。文書を所有して知識を得ることはエリートだけの独占ではなくなった。歴史家アイリーン・ファイフは、19世紀に労働者階級の生活を改善するために一連の社会改革が行われた中で、大衆の知的向上の観点から知識の普及が重視されたことを指摘している。その結果、教育のない層の知識を向上させようとする改革の動きが起きた。ヘンリー・ブルーム(英語版)が代表を務めていた「有用な知識を普及させるための協会」はすべての階級が読み書き能力を身につけられる制度を設立しようとした。また同協会は、一般庶民に科学の成果を総合的に伝えることを目指して『ペニー・マガジン(英語版)』のような週刊の雑誌を発刊した。 科学に関する出版物の読者が増加するにつれ、公共科学への関心もまた高まっていった。オックスフォード大学やケンブリッジ大学など、一部の大学では公開講座が開設され、一般大衆の受講を奨励した。19世紀の米国でも巡回講義が一般的に行われ、数百人の観衆を集めていた。この種の公開講座はライシーアム運動の流れを汲むもので、基礎的な科学実験の実演を通して、教育の有無にかかわらず聴衆に科学知識を伝えた。 公共科学の普及とは、マスメディアを通じた一般大衆の啓発だけではなく、科学コミュニティ(英語版)内部でのコミュニケーションが発展することでもあった。科学者はそれまでにも数世紀にわたって自らの研究成果を出版していたが、王立協会の『フィロソフィカル・トランザクションズ』のような伝統的な総合論文誌はコミュニケーションの場としての重要性を失っていった。19世紀にはそれに代わって、それぞれの分野の専門誌で研究成果を発表することが科学者のキャリアには欠かせなくなった。科学の普及がさらに進み、論文出版が一般化した結果、19世紀末になると『ネイチャー』や『ナショナルジオグラフィック』のような雑誌が多数の読者を獲得して強固な資本基盤を持つようになった。
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