高架下の概説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 02:02 UTC 版)
日本では「ガード下」とも呼ばれる。線路や道路を高架橋で建設・改修した場合、その下と地面の間に空間(多くは地上1〜2階程度の高さ)ができる。土地が不足気味な都市部において、こうした空間は古くから店舗や住宅、倉庫、交差する道路などに活用されている。鉄道事業者や道路管理会社、またはそれらから委託を受けた不動産会社などの事業者がテナントを募集して賃貸することが多い。東京高速道路のように、高架下に入る店舗から得る賃料で高架上にある高速道路の運営費用をまかなう、という事業者もある。 鉄道事業者にとっても高架下の活用は大きな収益源であり、保育所のような公共的施設が入ることもあり、街づくりへの影響も大きい。兵庫県神戸市の元町高架通商店街(通称・高架下)や、千葉市の千葉駅-本千葉駅間のように、大都市中心部にある隣接駅間高架下の大半が一連なりの商店街やショッピングセンターとなっている例もある。 こうした鉄道高架下店舗は買い物や居酒屋など飲食の場として親しまれる一方、「暗い」「うるさい」という印象も強かった。鉄道各社は線路下の天井をガラス張りにするなど、明るく開放的な雰囲気の商業開設も行っている。高架下商業施設に統一ブランドを導入する鉄道会社もある。東日本旅客鉄道(JR東日本)は、中央本線の東京都内多摩地区における連続立体交差事業で生じた高架下空間に商業施設「nonowa」を展開(nonowa武蔵小金井など)。東急電鉄は2016年以降、駅・路線名+高架下という名称の「中目黒高架下」「池上線五反田高架下」という商業施設を相次ぎ展開している。 日本で初めて高架下に店舗を構えられる設計で誕生した高架橋は、1910年に国鉄有楽町駅から新橋駅まで建設された「第一有楽町架道橋」で、設計をルムッシュテル、工事監督をパルツェルという二人のドイツ人が担当した。その店舗のひとつ、おでん屋岩崎は1920年に浅草で開業していた岩崎善右衛門が、関東大震災で焼け出されたのち、権利金のいらないガード下に目をつけて移転し、深夜まで安く食事ができる店として繁盛した。東京府がガード下も家屋と見做して家屋税を賦課した際には府知事を相手取って行政訴訟を起したが敗訴した。岩崎は店内に「働かざる者は食うべからず」の貼り紙をするなど変わり者店主として知られ、1923年の朴烈事件の際には金子文子の弁護を山崎今朝弥に頼みに行ったり、1932年の天行会独立青年社事件の際には、知人であった児玉誉士夫を、自身の愛人が経営する千葉の中山町法華経寺内鬼子母神境内の老人養護施設「岩崎私立養老院」にかくまったりと逸話の多い人物で、1940年に亡くなった際にはガード下で葬儀が行なわれた。
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