預言者マニ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 00:15 UTC 版)
詳細は「マニ (預言者)」を参照 預言者マニ(216年-277年頃)は、パルティア貴族の父パティーク、パルティア王族出身の母マルヤムのもと、バビロニアで生まれた。マニが4歳のとき、パティークの入っていたユダヤ教系キリスト教のグノーシス主義洗礼教団エルカサイ派に連れていかれ、ユダヤ教的・グノーシス主義的教養の横溢する環境で成長した。マニが12歳のとき、自らの使命を明らかにする神の「啓示」に初めて接したといわれる。その後、ゾロアスター教・キリスト教・グノーシス主義の影響を受けて、ユダヤ教から独立した宗教を形成していった。西暦240年頃、マニが24歳の時に再び聖天使パラクレートス(アル・タウム)からの啓示をうけ、開教したとされる。 マニは各地で宣教活動を行い、サーサーン朝のシャープール1世宮廷に招聘・重用された これらにより、マニはサーサーン朝全域とその周囲に伝道して信者を増やし、教会を組織し、弟子の教育に努め、ローマ帝国にも宣教師を送った。この布教は大成功を収め、マニ教はエジプトのアレクサンドリアはじめ北アフリカ各地にも伝播した。 マニは、世界宗教の教祖としては珍しく、自ら経典を書き残したが、その多くは散逸した。シャープール1世に捧げた宗教書『シャープーラカン』では、王とマニとの間の宗教上の相互理解について記述されている。マニはまた、芸術の才能にも恵まれ、彩色画集の教典をも自ら著しており、常にその画集を携えて布教したといわれる。そのため、マニは青年時代、絵師としての訓練を受けたという伝承も生まれている。 272年、シャープールが死去し、バハラーム1世の時代になると、マニはゾロアスター教神官団の憎悪に晒された。276年、マニは大マグのカルティール(キルディール)に陥れられ、投獄された。マニの最期については良く分かっていない。 パルティア以来の諸文化交流の一産物 であるマニ教は、のちに西は北アフリカ・イベリア半島から、東はインド・中国に広がった。マニは「教えの神髄」の福音伝道を重視し、自ら著述した教典を各言語に翻訳させ、入信者を得るために各地で優勢な宗教の教義に寄せさせた。ゾロアスター教の優勢な地域ではゾロアスター教の神々、西方ではイエス・キリストの福音を前面に据え、東方では仏陀の悟りを強調して宣教するなど、各地ごとに布教目的で柔軟に用語・教義を変相させた。この結果、世界宗教へと発展したが、教義の一貫性は保持されなかった。
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