鞭打ちの教会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/06 06:09 UTC 版)
キリスト教では伝統的にイエスがローマ兵に鞭で撃たれた場所の上に鞭打ちの教会が建てられたことになっている。この建造物もいくつかの遍歴を辿っており、かつては馬小屋や紡績工場として使用されていた。 伝承によれば、この教会はオスマン時代、エルサレム総督の息子ムスタファ・ベイによって馬小屋として使用されていたという。ある日の夕方、彼は最良品種の馬を多数その馬小屋に入れたのだが、翌日来て見たところ、全頭が死んでいたので仰天した。改めて別の馬を入れ直したのだが、やはり翌日には死んでいた。そこでイスラム賢者にもとに相談に出向いたところ、同地にてイエスが鞭打たれたこと、同地がキリスト教徒によって敬われていること、その神聖な場所に馬を入れたので罰せられたことを知った。彼は大いに畏れて馬小屋の使用を止めたため、それ以来、廃屋と化したそうである。また、16世紀ごろからは教会の壁の中からローマ兵がイエスを鞭打つ音が聞こえるといった怪奇談も伝えられている。 鞭打ちの教会は、1927年から1929年にかけてイタリア人建築家アントニオ・バルルッチによって修復され、建造当時の面影を取り戻している。モザイク張りの床には茨の冠が描かれており、天井ドームやアーチにも装飾が施されている。三枚のステンドグラスが設置されているのだが、その図柄は、イエスの代わりに釈放されるバラバ、ローマ兵によって茨の冠を被せられるイエス、潔白を主張して手を水に浸すピラトとなっている。 「 ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。その頃、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。ピラトは人々が集まってきた時に言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを処刑に処してもらうようにと群衆を説得した。そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群集はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持ってこさせ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。-『マタイによる福音書』 27:15~27:26 」 この記述を根拠にユダヤ人は以降二千年近くの間、キリスト教社会において「メシア殺し」の誹りを受けることになるのである。また、上記一文は反ユダヤ主義の絶好の口実として用いられている。イエスの死についての責任がユダヤ人にはないことをカトリック教会が公式に宣言したのは、1962年から1965年にかけて開催された第2バチカン公会議でのことである。その内容は、キリスト教以外の宗教についての文書である『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言(Nostra Aetate)』4に記されている。
※この「鞭打ちの教会」の解説は、「ヴィア・ドロローサ」の解説の一部です。
「鞭打ちの教会」を含む「ヴィア・ドロローサ」の記事については、「ヴィア・ドロローサ」の概要を参照ください。
- 鞭打ちの教会のページへのリンク